2005.06.06

Category:OB

「いまだ、緊張の種は尽きず」金秀吉(映画監督)

 

先日、私の監督・脚本作『千の風になって』の日本映画学校における上映会に、講師としてお呼びいただいた。
母校に呼んでいただくのは三度目。だけど、母校講演での特別な緊張感は、なくなってゆくばかりか、回を重ねるごと大きくなるばかりだ。もちろん、心嬉しさが緊張させるということもある。言うまでもなく、旧知の講師や教務の皆さんに再会できると言うこと。そして、大阪の某学校で映像製作や脚本実習などの非常勤講師をやっているけれど、そこは演劇専攻であって、講師である私とすべての学生が映画でつながっているわけでない。最近は、その現実に心臓が破裂しそうになるが、今村監督や黒澤監督さえ、その作品を見ていないばかりではなく、監督の名前さえ知らない学生も年々増えている。人生や日常的な志向性に、映画表現がない人に、なぜ自分が身を削って教えなければならないのか。はたして、一年間、自己欺瞞に陥らずに教えうるのかという思い。が、映画学校での講演は、参加者各自のレベルは別にして、とりあえずは「映画」でつながった学生と、たぶん、その学生たち以上に映画好きの社会人の方が参加されている。

 

そう、まず最初の緊張は、その参加者の鑑賞に自作が耐えうるかどうかと言うこと。時間を損したと思われないか。そして、上映のすぐあとで、どんな顔で、いったい何を話せばいいのかと言うこと。(もし次の機会があれば、話しだす前に、数人の参加者に、自作に対する感想を聞かせてもらってから、講演をはじめようと思っている)とにかく今回は、『あーす』以来、十二年ぶりの劇場公開の監督作品が出来たこと、その十七歳の鮮烈な女優デビュー作『豚と軍艦』からオマージュの対象だった吉村実子さんと御一緒できたことなどの自作に対する愛着と、いやらしくなりすぎない程度の、たとえば、「○○のところを××にシナリオを書き直していれば、違ったかたちのものになっていたはずだ」くらいの具体例をあげた自己批評アプローチで進行してゆくことにした。とくに、シナリオを書こうとする人に、多少なりとも参考になればと思うところもあった。
二つ目の緊張は、現役時代の日本映画史の講義や、数多くの著作を読ませていただいて多くの教示を受けている佐藤校長先生をはじめとする講師諸先生の前で、おおむね照れ隠しによる笑わせネタや、時に講演主催側から強くリクエストされたりする、撮影現場でのオモシロ・エピソード集で、まさか逃げきることも出来ない。
三つ目は、自己体験的に、映画を見たあとで、その映画の尊敬もしていない監督のレア話など、あまり聞きたくないモンだという思いも正直少し以上あり、意識が縮こまる。
などなどのように、映画学校での講演の緊張の種はつきない。が、最大の緊張の種は、なんと言っても、今村先生がコメントされていた、その表現作品が「ほんとに、ほんとなのか」作り手の真情や、腹の底から生み出されてきたものなのかという問いかけに、いまだ真正面から、ぶつかりきれていないところからくる底なしの不足・欠如感である。
若い頃、相手へのガチンコ突撃で、身体と脳細胞を傷つけながら、何のためにラグビーをやっていたのかとも思う。次こそ、多くの観客の目から火が出るような映画を作りたいと思っている。

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