2005.08.22

Category:OB

「小林正樹監督の思い出」平松多一(しんゆり映画祭事務局長)

 

「新宿映画祭 第一回日本映画の発見 小林正樹ノ世界」という催しが、1988年にテアトル新宿で開催された。小林監督の全20作品を1週間に渡り上映し、縁の俳優・スタッフ・評論家が連日登壇し、講演やトークショーを繰り広げた。
「映画学校では、授業でたくさんの映画を学生に見せている。学生だけじゃもったいない、街に持ち出して、一般の人も巻き込んでイベントにしよう」
今村監督の発案だった。すぐさま、映画学校のスタッフ(職員・教員)を中心に映画祭実行委員会が組織され、そこに、卒業したばかりの私は、制作部員として月給8万円で雇われた。

 

小林監督は、自作映画のパンフレットを自ら編集する。「人間の条件」「切腹」「怪談」…1カットとて妥協をしない小林監督は、映画にまつわるすべてを揺るがせにしないのだ。だから、小林正樹ノ世界のパンフ制作も陣頭指揮。映画学校の会議室には、ダンボール箱10箱を超える小林監督秘蔵のアルバム、スクラップブックが運び込まれた。私は、連日、映画学校に通いつめ、入念にスチール写真や昔の新聞記事を選んでゆく小林監督の朝夕の送り迎えの運転手となった。
「平松、いったいいつになったらパンフレットは完成するんだ…?」
実行委員会の面々は、気を揉んでいた。無理も無い。映画祭の製作資金は、新宿の老舗店舗、有名企業、有名百貨店からの協賛金にそのほとんどを頼っていたが、それとて、パンフレット巻末の広告ページを提示して後、はじめて振り込まれる仕組みだ。開催を間近に控え、台所は火の車。一刻も早くパンフが欲しい実行委員会である。だが、そんな話、いったい誰が小林監督にできるのだ? 
状況を見守っていた私にその役目が、ふられた。

 

さて、私は今、今年で11回目を迎えるしんゆり映画祭という市民映画祭に関っている。主催は川崎市、映画学校も共催で名を連ねているが、運営の中心を担うのは、川崎市民たちである。主婦、学生、OL、サラリーマンさまざまなメンバーたちは、お小遣いを切り詰めて映画館をハシゴし、仕事を抜け出しては試写会に顔をだす。「これは…!」という作品にめぐりあったなら、まだ、仲間たちには内緒の自分だけの理想のプログラムに付け加える。10人いれば10通りのプログラムができるのだが、しんゆり映画祭の市民スタッフは、とうてい10人ではきかない。そこで、センスとセンス、こだわりとこだわりが、ぶつかり合うプログラム編成会議が、ウイークエンドの土曜日を中心にえんえんと続くのだ。

 

私は、彼ら一人ひとりが、1度でも名前を挙げた映画、監督・俳優らのゲストをことごとくしんゆりに集結させたい。
だが、それを実行するには、予算書とスケジュール表を破り捨てる必要があり、そんな勇気は、昔も今も私には無い。17年前、私は、実行委員会の窮状を小林監督に打ち明けてしまった。小林監督は、ちょっと困ったような表情で私をみつめて言った。
「パンフレットは、(映画祭の)初日の朝にあればいい」
新宿映画祭 日本映画の発見シリーズは、年1回開催のペースで定着し、その後、新藤兼人ノ世界、今井正ノ世界、吉村公三郎ノ世界、市川昆ノ世界、黒澤明ノ世界、岡本喜八ノ世界と続いた。
だが、1995年10月13日、今村昌平ノ世界の最終プログラム「黒い雨」で、打ち上げた。その2週間後くらいか、映画学校近くのホールに脚本家の山田太一氏、淀川長治氏、女優の市原悦子さんらがやってきた。仮設のスクリーンに「異人たちの夏」(脚本・山田太一)が、映し出された。しんゆり映画祭誕生の瞬間だった。私は、現場にスタッフのひとりとして立会い、その後、離脱したり、また復帰したりを繰り返しつつ現在に至っている。 
第11回KAWASAKIしんゆり映画祭、メイン会場をワーナー・マイカル・シネマズ新百合ヶ丘にまもなく開催です。上映作品、来場ゲスト等プログラムの詳細は、チラシ、ホームページ http://www.siff.jp/でご覧ください。ご来場、お待ちしています。

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