2005.09.05

Category:OB

「劇場公開を前にして」木村茂之(映画監督)

 

確信犯で日本映画学校に入り、確信犯で劇場公開作品を作り上げた。
表現は確信《革新》に満ち満ちた行為である。

 

高校卒業後、アメリカへ渡り過ごした1年間で映画の世界に魅せられてしまった。それも、ハリウッド映画ではなく日本映画。小津安二郎、溝口健二、黒澤明の映画。
退屈で窮屈だと思っていた日本から脱出したく、また、自分の価値観の幅を広げたく飛び出した先で、寂しさから日本語にふれたくなり何気なく借りたのが日本映画のビデオであった。そこには煌きと真実と思わせてくれるもので満ち溢れていた。煌きや美しさに溢れた世界。自分もいずれ、その世界の住人になりたいと思い、遠回りをしつつも日本映画学校に入学。24歳の春である。
日本映画学校に校則《拘束》はなかった。(もしかしたらあるのかもしれないけれど…)
表現は自分を縛るものではなく開放するもの。映画学校に集まって来ていた同じ仲間たちは、方法はまだ分からないが、何かを解き放ちたい欲望でギラギラしていた。18~30過ぎと年齢を聞くだけでもいろんな種類の人間がいた。そして、日本映画学校はそれまでに出会ったことのなかった最高のコミュニケーションの場でもあった。学校とは本来そういう機能こそ必要なのではないのかとも、今にして思ったり。
コミュニケーション、自分の意志を伝えるには、相手より先に、まずはとことん自分と向き合わなくてはならない。何故、そういう映画を作りたいのか。その映画のどこを面白いと思うのか。等々。映画制作実習になると、学校の枠を越え社会とコミュニケーションを交わしていかなくてはならなかった。取材。ロケ先の交渉。等々 
そして、卒業制作。

 

卒制で自分が掲げたテーマはコミュニケーション。現代若者世代のコミュニケーションへの渇望と欲求、不器用にしか通じ合えないことでの葛藤であった。その卒業制作作品『私をみつめて』が今年の10月15日よりポレポレ東中野で公開される。
と、強引に映画の宣伝に持っていってしまったが…

 

話を出発点に戻そう。
日本には国立の映画大学はまだないけれど、映画学部、映像・映画学科を持つ大学は多い。また、映像・映画を学べる専門学校も数知れないほどある。その中で何故自分が日本映画学校へ入学したのか。それは卒業と同時に作品を劇場公開しようと思ったからであった。
自分が入学する前の数年間、日本映画学校卒業制作作品が毎年のように劇場公開されていた。この学校に入れば自分の思いどおりになる(映画の世界の住人になること)とまずもって思ってしまった。確信犯である。そして、尊敬する原一男監督のもとで映画を作ろうと。

 

卒業していま思うこと。日本映画学校のチカラ、財産は(劇場公開できる卒業制作作品を社会にだしていることよりも重要かもしれないこと事で)映画業界、テレビ業界に卒業生の数が多いことだと思う。卒業し、就職した制作会社には知っているだけでも3人も卒業生がいた。
なにか、甲子園に地元の高校が出たみたいに、変な同胞意識が生まれる。そして仕事もうまくいき次に繋がる。映画の世界の住人として一生過ごすことができる。
どうせ一回きりの人生。まだその途中ではあるけれど、映画に全てかけ、日本映画学校へ入学卒業して、良くなかったと思ったことはいまだ一度もない。

ページトップへ