2006.05.22

Category:OB

「『ドキュメンタリー』とは」松江哲明(映画監督)

 

ドキュメンタリーとは残すものだと、思う。現実を素材にする以上、作者がフレームを決める以上、膨大な撮影素材を編集する以上、何かを捨て、残している。その選択は劇映画以上に多くなる。よって完成された作品はほんの何分の一かにしかすぎない。本作「セキ☆ララ」は撮影期間4日間の内30時間分の素材を元に83分の作品にした。実は僕の制作したドキュメンタリーとしてはそれ程多い素材ではない。それでもかなり捨ててるな、と思う。だからこそ残したカットの意図を伝えたい。なぜこの言葉が残されたのか、なぜこの表情が生かされるのか、なぜここで終わるのか。カットとカットの合間。僕はこの隙間にこそ、観客を意識させたい。

 

ドキュメンタリーとは関係性を映すものだと、思う。撮り手と被写体の関係性。「私」が「あなた」をどう、見ているのか。そこだけを一生懸命考え、映し、笑い、泣き、付き添う。つらくてしんどい作業だけど、それでしか関われない。たまに、ふとした瞬間に、「あ、これかな」と思える画が撮れる。それさえも編集作業時に裏切られることもあるけれど、そんなカットの積み重ねでしか他人を感動させることなんて、とても出来ないと思う。

 

そしてドキュメンタリーとは、作り手の意図以上に不可解なモノが映る、と思う。僕の聞きたいことを聞き、選択し、作品として完成させる。しかし、それでも作品は作り手を裏切る。予期しない何かが、映像から溢れる。これが現実を素材にすることの恐さ、だ。例えば考え抜いてフレームをチョイスしたとする。しかし、だ。それでも現実はびくともしない、そのフレームの影からひょいと「偶然」という事件を起こす。それは僕の意図をいとも簡単に崩し、壊す。それでも現実に抵抗しようと、僕はその偶然を必然のふりして構成する。けど、そんな戦いをしても隠せないのだ、現実は。演出を超えた偶然に妙な敗北感を覚える。しかし、だからこそドキュメンタリーは面白い、というのもまた事実。

 

僕は「セキ☆ララ」で若い在日を撮った。彼、彼女等の共通項はAVであり、セックスであり、アイデンティティだ。裸で母国と祖国、家族と私、性と生を語ってくれた。僕はただ「残すこと」と「関係性」を考え、撮った。

 

そこから生まれたのは「答え」ではなく「疑問」だった。当然だと思う。僕はこのドキュメンタリーにテーマを求め、何か答えを提示するために撮ったのではない。興味のある人間との関係性を残すためだけに撮ったのだ。答えは観客にも求めない。ただ、この現実を、僕の思う真実を見て下さい、としか言いたくない。

 

ドキュメンタリーとは疑問を作るものだと、思う。

 

「韓朝中在日ドキュメント セキ☆ララ」
公式サイト http://seki-lala.com/
配給:イメージリングス http://www.imagerings.jp/(「セキ☆ララ」予告編公開中)
6月3日(土)~23日(金) シネマアートン下北沢にてレイトショー(連日21時~)

 

「あんにょんキムチ」「カレーライスの女たち」
5/27(土)~6/2(金) 限定リバイバル上映(連日21時~/2本立て)

 

松江哲明ブログ
http://d.hatena.ne.jp/matsue/

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