2006.06.05

Category:講師

「今村昌平監督の業績」佐藤忠男(映画批評家)

 

今村昌平監督は、日本を代表する映画監督のひとりである。1926年に東京に生れ、早稲田大学を出て、1951年に松竹大船撮影所に助監督として入社した。そして1958年に日活で監督になった。

 

今村監督の映画では、彼が1945年の日本の敗戦を学生時代に経験し、敗戦の意味を自由に深く考えることができたということが大きな意味を持っている。
敗戦は日本人に多くのことを教えた。まず、権力者の命令のままに動くことは止めて、もっと自分の本当の欲求に正直になろう、ということである。今村昌平の初期の映画には、「欲望」ということを主題にした作品が多い。自分の欲望に忠実に、見栄も外聞もなく、なりふりかまわずエネルギッシュに行動する人々の姿が描かれている。それは殆んど滑稽であり、愚かしくもあるが、これこそが人間の正直な姿ではないかと共感するところもあるという複雑なものだった。「赤い殺意」がその頂点だったと思う。
他方、敗戦は、日本人はなぜ、あんな愚かな戦争をすすめた権力者におとなしく従ったのか、という大きな疑問を残した。日本の社会では権力者と民衆の関係はどういう構造になっているのか。今村昌平はこの問題にも強い関心を持って取り組みつづけた。その探求の頂点をなすのは沖縄の離島の村を日本の伝統的な社会の縮図のように描いた「神々の深き欲望」であると思う。この作品では、人間の欲望を強く押え込む集団の掟というものの恐ろしさが深く鋭くえぐり出されていた。

 

今村昌平の名声は国際的にはカンヌ映画祭で二度も最高の賞に選ばれた「楢山節考」と「うなぎ」の二つの作品によって広く知られている。これらの作品は、欲望のままに生きようとする人間と、それを厳しく制限する社会とのぶつかりあうところをとらえ、人間はなんのためにこそ生きるかという問題を思索している映画だと言えよう。
今村監督のもうひとつの重要な仕事は、1975年に横浜放送映画専門学院を設立して、今日の日本映画学校に育てあげたことである。かつての製作機関であると同時に人材育成の場でもあった映画会社の撮影所が、製作の主体であることを止めて人材育成の機能を失ったとき、今村監督は現場の第一線の監督たちや技術者たちに呼びかけ、これを率いてこの学校をつくった。それから三十一年、いまでは日本映画の製作現場のいたるところに卒業生がいて活躍している。著名なヒットメーカーたちから一般には知られていないがその人たちなしには製作が成り立たない裏方の優秀な技術者たちまで、日本の映画界を広く力強く支える存在になっている。そうなるまで、今村監督のたいへんな努力があり、これは他人に真似のできることではなかった。
作家として、また教育者として、その功績はじつに大きい。

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