2007.04.16

Category:講師

「野球をしながらシナリオを書いてきた」伊藤康隆( シナリオライター)

 

「おい、イトー、頭の動かないやつは体を動かすしかねえだろ」
映画学校は出たけれど、シナリオどころかプロットさえ覚束なく「佐治乾助手」とは
名ばかりで、まさに屁のつっぱりにもならず、新宿は百人町のボロアパート(隣りと向かいは昭和40年代半ばから時間が止まってるようなラブホテルだったなァ)で逼塞していたぼくに、ちょっと乱暴な口調で声をかけてくれる人がいた。
永原秀一さん。
20代の半ばから『狙撃』『弾痕』『最も危険な遊戯』ほか、数々のアクション映画を書きまくった畏敬すべき大先輩だ。佐治さんはそのまた先輩筋に当たる方だった。

 

誘われるまま出向いた先は井の頭線の富士見ヶ丘にある野球場で、その日から毎週1回、ぼくは白球を追って――すでにちょっとハゲ始めていたけど――少年のように(?)グランドを走り回ることになった。
思いがけなく20年ぶりに草野球を始めたのだ。
それから半年ほどして、ぼくは見よう見まねで、シナリオらしきものを書くようになった。
その間の事情を説明すると長くなるのだが、永原さんを中心とするその野球チームには、監督やシナリオライターや照明技師や俳優さん、いわゆるギョーカイの人たちが数多出入りしていて、野球の話がやがて映画の話になり、映画の話がまた野球の話に戻ったりして、試合に勝っても負けても、行きつけの飲み屋で、談論風発、口角泡飛ばし、下手すると侃々諤々、朝まで議論し続ける繊細かつ凶暴な人たちに交じって、ぼくも知らず知らずのうちに、モノを書く訓練を受けていたのだと思う。

 

それから数年、ふくらはぎが肉離れしたり、腰を痛めたり、痔を患ったりしながらも、
なんとか騙し騙し野球を続けてきたが、やがて引退せざるを得なくなった。
が、その後も、自分の仕事に関しては、どこかに野球の感覚みたいなものが残っていて、何はともあれグランドへ出て、補欠でもいいからバッターボックスに立ち、たとえ、まぐれ当たりのヒットでも、あるいはデッドボールでも何でも塁に出て、できれば次のベースを狙い、いざとなったら破れかぶれでホームスティールを敢行する。
――てなスタイルでもって、映画、ドラマ、舞台、Vシネマ、アニメ、ゲーム、AV(珍しく小難しいストーリー性を求めるプロデューサーがいたんだよね)、エロ雑誌の記事など、有体に言えば、なりふりかまわず書き続けて、現在に至ってるようなわけだ。

 

で、ぼくは今も細々とホンを書きながら、いつか自分が撮りたい映画の構想を練りながら、先走って勝手にロケハンに行ったりしながら、ついでに、そこで小さな恋を見つけたりしながら、縁あって母校の講師を引き受けて、早くも今年で4年目に突入することになった。
何でもやりゃあいいってもんじゃないだろうが、ドイツの詩人ケストナー曰く「実行以外、道はない」ってのもあるわけで、やっぱ、いついかなる時でも、バッターボックスに立って、まずはフルスイングしたいと思うのだ。

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