2008.01.07

Category:OB

「日本映画学校で得たもので人生を楽しむ」東誠(会社経営・エキストラ)

 

アン・リー監督の「ラストコーション/色戒」にワンカットだけ出たので、その話を手土産に久しぶりに新百合の映画学校を訪れた。
(あの映画の製作にも何人かの先輩が係わっていて、現場でお会いした。)

 

卒業後も、数年置きに顔を出してはいたのだが、今は共同経営する会社で、対日ソフトウェア開発のエンジニアを育て日本に送る為に、上海に住んでいて、帰国するのは年に二、三回だが、偶然その日は1年生の講評上映会に出くわした。
恩師に混じって、講師に5人も同期生が居るのには更に驚いた。

 

昨冬上海の撮影所で会った大陸の助監督達はとても熱意に溢れて優秀だった。
(それだけにアン・リー監督の穏やかさが引き立てられたが。)
しかし、講評上映会で出会った後輩達はそれに負けない熱気を持っていた。
恩師、同窓生の顔と在校生の熱気が、私を20年前に引き戻してくれた。

 

学校が新百合に移転した最初の入学生達は素晴らしい仲間達だった。
上は30代から下は10代までの全く経験、知識の異なる、しかし志を同じくする学生が切磋琢磨していた。

 

私にとって、母校「日本映画学校」は特別な存在だ。
いや日本に於いても、とても特殊で貴重な存在の学校だと思う。

 

卒業後の変化に満ちた人生は、映画界との関わりが時々交差する不思議な、まるで「カメレオンマン」や「フォレストガンプ」の様な20年だった。

 

録音助手を1年で辞めて初めて映像の現場を離れ、営業マンとして秋葉原の商戦で、大メーカーにひとり対峙した時の「勇気」や、横河電機や日立製作所グループの 一員として新宿の高層ビルに勤務する、サラリーマン然とした日常に向き合う「柔軟性」や、十年以上前にオタク文化創出の一翼を担う事になった、 今は無きフィギュアメーカー・レッズの設立に参加した時の「情熱」も、無一文になって上海の地に市井の中国人に紛れて暮らした時の「耐久力」も、 そして再起する為の「挑戦心」も、日本映画学校の3年間に培った。

 

また、私の社員達(中国社会で恵まれた階層に生まれ、人口の5%に過ぎない大学卒の若者達)は皆、同窓生諸君の手掛けた作品、とりわけ動漫(アニメ)のファンだ。
国家や教育といった彼等との意識の垣根を作品達が取り払っている。
国籍、言語。文化を超えて映画学校の卒業生が創造した映像は世界を繋いでいる。

 

商才が有ったのか無かったのか、今は海外で実業の世界に、それもIT業界に身を置いていますが、恩師、先輩の皆さん、卒業生、在校生の諸君が上海に来られる時(特に困った時)は、是非連絡して下さい。
私の会社「上海宮東軟件有限公司」のHPは http://www.gdrj.cn です。
社員全員が日本人と同等の日本語を話すので、何かお役に立てるかも知れません。

 

(日本映画学校 映像科1期生)

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