2008.03.03

Category:OB

「映画と科学(映画の世界から自然科学に逃げ込んだ)半端者の戯言」太田聡史(科学者)

 

ぼくは人間というものが面倒くさくて、もううんざりで、大っ嫌いで、一番人間くささとは無縁に思えた研究の世界に逃げ込んだ。
ところがそこはとてつもなく(そう、とてつもなく)人間くさい場所だった。科学というものが、文字通りの意味で、人間によって創られていることを思い知らされた。
結局、人間である以上、人間性から逃げることはできないじゃないか。
この当たり前のことに気がついて、人間の営みとして、映画というものを見直してみると、これが猛烈に面白い。
自然科学が、人間くささを何とか排除しようとして、結局人間の生臭さに捕われているのと対照的に、映画はその生臭さそのものを描こうとしている。
ぼくは若い頃、先輩方から、この「生臭さ」について耳にタコができるほど聞かされていたが、内心、本当だろうかと疑っていた。人間が1人も出て来ない映画があってもいいんじゃないかと思っていた。

 

ぼくは今そんな映画があり得ないことを知っている。出演者が全員タコであっても、ネズミであっても、ロボットであっても、映画は人間の手によって作られるからだ。そして、何よりも観客は人間である。映画は人間の手による、人間に向けてのメッセージだ。タコにも、ネズミにも、ロボットにも、人間性が必ず宿る。
そして、それは科学においてすらそうなのだ。映画と自然科学の置かれている立場には、明らかに共通点がある。科学者の仕事は客観性が命である。だが、現実には、科学者は自然を機械のように眺めているわけではない。無生物にも、冷たいデータにも、抽象的な概念にすら、人間性は宿る。

 

もしあなたが、実際の科学者と話をすると、驚く程人間的なことに気づくはずだ。科学者は、ちょっとだけ理科や数学が得意なだけの、普通の人間である(いや、もちろん悪魔のように頭の切れるひともいるが)。たいていの科学者は、人一倍正直で、人一倍不器用で、苦しんだり、もがいたりしながら、少しずつ仕事をしている。どんなに客観的になろうとしても、どんなに冷徹になろうとしても、しょせん科学は「人間の所業」である。もっとも、ぼくはむしろ、この人間くささが、思いがけない発見につながってきたのだと思うけれども。
その一方で、映画には確かに科学的な思想が息づいている。これは、映画制作のテクノロジーの話に限ったことではない。いい脚本というのは、冷酷なくらいに、科学的であるとぼくは思う。多分、そのあたりが、いわゆる主流文学と脚本との違いのような気がする。いい演出家も、人間性を理解した上で、なにか別の視点を持っている。その視点というのは、文学とか、芸術とかとは少し違うんじゃないか。むしろ、科学者の視点ではないかと。言い換えると、映画制作というのは、多分に理系的なのではないだろうか。

 

ただし、自然科学の主役は、人間ではない。
たいていの人にとって、人生はつらく、重く、理不尽だ。もちろん毎日がハッピーでしょうがないという人もいるかもしれないが、少なくともぼくはそうではない。
おそらく自然科学は、人生の疑問には答えてくれないだろう(もしかるすと、将来とんでもないことが起こって、状況が一変するかもしれないが)。ぼくは科学というものが好きだけれど、その限界があるのも知っている。
世の中は、科学によってどんどん変わってきた。これからも変わるだろう。映画と言うメディアも、科学によって産み出され、どんどん姿を変えつつある。そして、人間自身も科学によって、別なものになりそうな気配もある。もしかすると、絶対的な真実と思われていた老化や死すら、人間は克服する時代が来るかもしれない。

 

だが、それでも、科学は人生の疑問には答えてくれないだろう。科学は自然については雄弁かもしれないが、人間そのものについては沈黙を続けるだろう。
結局、答えは自分で見つけるしかないのだ。そして、生き続けるしか、ないんだ。
ぼくはこれから何があっても、映画と科学があれば、生きて行けるんじゃないかという気がしている。だから、そのような作品を生み出しているみなさんに、心から(本当に心から)感謝しています。

 

(横浜放送映画専門学院 映像科10期生)

ページトップへ