2009.03.24

Category:学生

「一年の最後に」草野萌(映像科1年)

 

先日、映画制作体験実習が終わった。
これは映像科一年生の最後のカリキュラムで、2か月ほどかけて9分の映画を各クラス1本制作する。
(脚本から演出、撮影、照明、録音、編集そして出演もすべて自分たちで行った)
ところが、今回の実習の脚本にわたしは気持ちが入り込めなかった。

 

そこで、スクリプターという位置で制作現場を見たいと思った。
つかず離れず監督の近くにいて、時間を計る。嫌でも現場から目を離せない。
そして、スクリプターは一人なので仕事に対する責任を一人で持つことになる。

 

撮影が始まったが、現場の雰囲気はよくなかった。
誰かが悪くしているというのではなく、一人一人の作品制作に対する気持ちがバラバラだった。
だが、やると決まった以上やらなくてはならない。
監督の撮りたい画のために力を注いだ。
ロケでは、ホッカイロが手放せなかった。

 

前半、撮影は順調に進んでいくものの現場の雰囲気が良くなっていくことはなかった。
これではいけないと思うのだがどうすることもできず、小さくてもいいからわたしに何かできることはないか考えた。
そして、相手を思いやる気持ちがなくなっていることに気づいた。

 

自分の仕事さえこなせばいい、撮れればいい。と思ってしまっていた。
映画は生き物。それを作っているわたしたちこそ生き物だということを忘れていたのだ。

 

それからわたしは鞄に飴とチョコレートを常備するようにした。
そして、寒空の下で休憩もなく頑張っている仲間たちに配った。少しでも疲れが癒されればと思い・・・。

 

そんなこんなで撮影は終わり、編集もなんとなく終わった。
でも今回は2学期の映画基礎演習のときに比べ、編集の面白さを感じることができた。

 

上映会が終わり、教室で一人一人この実習の感想を言い合った。
そのときわたしは冒頭に書いたようなことを言った。
そしたら林さんに、
「スクリプターは監督にいつでもくっつき、監督とカメラの傍にいなくてはならないんだ。そうなれたらいいね」と言われた。

 

それを聞いて、この実習の間ただの一度も監督に張り付いていなかったことに気づいた。
脚本に入り込めないなんてただの我儘にすぎない。甘えていたのだ。わたしは恥ずかしい気持ちになった。

 

(日本映画学校 映像科23期生)

 

 

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