2009.04.07

Category:学生

「今村賞を頂いて」菊池智美(映像科卒業)

 

大学4年の秋。地元福島の病院で、私は迷っていました。
映画なんて暢気なことを言っている場合だろうか・・・。

 

大学で教育学を学んでいた私は、それでも映画を諦めきれず、「映画学校に通いたい」と両親やゼミの先生に相談して、教員採用試験真っ只中ひとり推薦用の入学願書を手にしていました。養護学校の教育実習を終え、ちょうど映画に向き合い始めた頃です。
2005年の秋。地元福島の、林檎畑に囲まれたのどかな病院でした。
集中治療室の前、戻らない母の意識をひたすら待ちながら私はぼんやりとそんなことを考えていました。田舎の時間は嫌というほどゆっくり流れ、気持ちはどうにもならないほど小さく潰れそうでした。

 

私にはひとつ上の姉と3つ下の弟がいます。姉は社会人1年目。弟は大学1年生。まさか母が倒れるなんて万に一つも考えたことがなかったのに、私はこれから3年間、暢気に学生生活を送っていいものなのだろうか。まして先の見えない映画業界だなんて、そんな自分本位な生き方をしていいのだろうか。
追い討ちをかけるように母のCT写真を見て、先生は「難しいでしょう」と言葉を濁しました。
願書締め切りのギリギリで、そんな私の後押しをしてくれたのは姉でした。
「あなたが今夢を諦めて、お母さんは喜ぶと思うの?」座っていた待合室ですぐ願書に名前を書いたのを今も覚えています。
毎日泣いていた、毎日気張っていた2週間強。
私が日本映画学校の願書を出したその1週間後、母が亡くなりました。

 

葬儀を終え関東に戻って3日後、入学試験がありました。自分の将来のことなんて数日綺麗サッパリ忘れていたのに、今思えばよく合格させてくれたなと思います。映画を真面目に作っていればそれでよしとされる学校なんて、なんて恵まれた環境なんだろう。与えられた環境に、精一杯答えよう。そう、心の中で感謝したのを今も覚えています。

 

そんな経緯もあってか、入学後はとにかく吸収できることは飛びつこうと、今日より明日は成長していたいなと色んなことに手を伸ばしてみました。
まず、人間研究をしました。それから200枚シナリオを書きました。3年間で映画の制作実習を6本やって、予告編編集もしました。監督もしたし、役者でも何度か出させてもらいました。
学校以外でも縁あって舞台に2度立ち、声を掛けてもらったモデルの仕事や、ジュニアワークショップの手伝いもやってみました。自主制作にもいくつか参加して、そうこうしてる間に気づけば3年が過ぎていました。
沢山の作品に関わって、沢山の人と知り合った3年間。ロケハンに挑み、美術は集まらず、尺計算に頭を悩ませました。お金と睡眠時間は間違いなく激減し、移動距離は増え、肩はこり、いつしか家に帰れないことが苦じゃなくなりました。
とは言え辛くしんどい日々かといえばそんなこともなく、たいしたことをしたわけでもない。思い返せば好きなことをただおもいきり楽しんでいただけのような気がするのに、気づけば今村賞まで頂いてしまって本当に恐れ多い限りです。

 

まだまだ先の長いプロの世界。私はようやく卒業を経てその入り口に足をつけた程度に過ぎません。実際、編集見習いとして作品についている現在自分の使えなさに悶々とする毎日です。
そのぺーぺーが学校の賞を誇らしげに掲げるのはいかがなものかと素直に喜べない自分がいて、おめでとうの言葉に「ありがとう」と答えるのが今の私の精一杯ですが、ただ思うのは、この賞は私のためにあるのではなく、支えてくれた人のためにあるのだということです。

 

軽い気持ちで父に報告したときの嬉しそうな電話の声や、姉からのお祝いメール。アルバイト先の常連のお客さんは顔を合わせるたびに「最近映画どう?」と声を掛けてくれたし、先生も生意気でマイペースな私の面倒を飽きずに見てくださいました。どこかで見守ってくれている母がいなければ、私はここまで夢を見失わずにこれなかっただろうし、友達や同期がいなかったら映画はつくれませんでした。沢山の人に、この賞はみんなのおかげですと胸を張って伝えたいです。
私はまだまだ、頑張っています。先の見えない世界ですが、これからもっともっと頑張ります。

 

とてもとても楽しい3年間でした。
映画はひとりでつくるものではない。人もひとりで生きていけるほど、強くも弱くも無い。私は幸せにも、ただ多くの人に生かされて、映画を思い切り楽しんでいるだけなのだと思います。
きっとこれからも、その思いは消えません。

 

(日本映画学校 映像科21期生)

 

>> 日本映画学校 – 2009年4月2日 — 日本映画学校 映像科21期生・俳優科22期生の表彰

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