2009.07.07

Category:OB

「流れるままに、流されています」松林要樹(映画監督)

 

「映画学校なんか出ても、現場じゃ何も役に立たないんだよ!」
日本映画学校を卒業してすぐ、年下の慶応大卒の先輩ADから、壊れたレコードのように、私は同じセリフで毎日いじめられた。
映画学校に入る時、私の実家のオヤジは、チーだのポンだのと鳴く麻雀をはじめ賭け事を控えた。
そんなオヤジに3年間も月謝を出させ続け、映画学校なんか入らないで、そのまま現場に行ったほうが良かったのかもしれないと本気で落ち込んだ。

 

ここだけの話、私はパキスタンの山奥知り合った娘を追いかけて、九州からノコノコと川崎に出てきて映画学校に入った。
それが映画学校に入る志望動機だった。
娘に「必ず映画を作る」と言ったら、何を勘違いしたのか付き合ってくれたので、入ることにした。
その娘が地元のケーブルテレビで再放送された「からゆきさん」をビデオにとっていた。
「あなたの学校の創始者でしょ」と一緒に見た。天草弁をしゃべる「からゆきさん」たちからは悲壮感すら感じない。
ただ人生を流されるまま生きた強い明治の女性だ。魅力あふれる「からゆきさん」らは、私が作品を見た時点で誰もこの世にいないかった。
そう思うとすごく切なくなり、それがきっかけで本格的な記録映画を作りたくなった。

 

映画を志したら現金がなくなった。
私は卒業して5年間、自主制作の記録映画を作っていたので、足早に娘に逃げられた。
東京の下宿は、風呂のない3畳間だ。部屋に風呂がないから、料金が一時間二百円の区民プールで、毎日汗を爽快に流した。
更衣室で下半身をじっと見つめる男から「お昼ごはんくらいおごるからさぁ」と何度も彼ととんかつ屋と焼肉屋で昼食を共にした。
私がノン気だとわかると、それからは何もおごってくれなくなった。

 

幸い、同郷の映画学校の先輩の実家が共産党員の農家だったので「富を再分配してくれない?」と甘えて頼むと、収穫の時期にタダで米50キロを送ってくれた。
赤ちょうちんで酔いつぶれる以外、娯楽の趣味を持たない私は、最大のストレスの発散が「腹いっぱい食うこと」なので、米を中心とした炭水化物の取りすぎで体重も7キロ増えた。
記録映画を作る時、腕利きのカメラマンを雇う資本もなく、機材は、比較的裕福な家庭に生まれ育った映画学校の後輩から「試しでカメラを使ってみたいから、一週間ちょっと借りるよ」と称し、そのまま半年間借り続けた。

 

また、売れっ子の同期の編集屋を、安いだけが取り柄の居酒屋で、工業用アルコールのような合成酒を浴びるほど飲ませ、終電を逃させ「うん」としか返事ができない状態にし、否が応でも映画にかかわる方向へ持って行き、協力を要請した。
特異な例かもしれないが、これは私が自主映画を作った経済感覚だ。

 

とにかく経済的に困窮に陥る。
今後、学生になるあなたが、日本映画学校に入学し、オヤジが麻雀卓でチーだのポンだの鳴くことができず、代わりに母ちゃんが食卓で泣きながら喧嘩する。
すると、実家から仕送りもなく、育英会から奨学金をもらって、バイトで生活費を稼ぐことになる可能性は高い。
バラ色を夢見た東京の学生生活は、売れない芸人と同じくらい大変になる。

 

話は大きく跳び、今回の初めて監督した映画「花と兵隊」へ移る。戦後、ある兵隊が傷つき日本へ帰らなかった。
兵隊が現地で迎えた妻は、とても綺麗だ。
そして、祖国に居ない彼らの人生において家族の存在が大きくて豊かだ。
これで、その土地に生きる必然性はある。ときめいた人を追いかける動機というのは、純粋だと私は思う。
これだけでは、何の事か判らないだろうが、そこに生きることは、縁だ。偶然の産物だ。予定調和にもならない得体が知れないものだ。
上記のように、今回、私が作った映画は映画学校の友達の支えがなければできなかった。
ここで、みんなに出会えたご縁に感謝を表したいが、これからの後輩にお勧めするには、もっと元を取り戻してからにしたい。

 

(日本映画学校 映像科16期生)

 

『花と兵隊』
監督/松林要樹(2004年卒業)
編集/辻井潔(2004年卒業)
タイトルデザイン/成瀬慧(15期生)
プロデューサー/安岡卓治(映像科担任)
機材協力/小田総一郎(2007年卒業)
編集協力/浜口文幸(映像科講師)、大澤一生(2005年卒業)、佐野亨(2004年卒業)、今井友樹(2004年卒業)、直井祐樹(2009年卒業)
配給/木下繁貴(2000年卒業)
>> オフィシャルサイト

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