2009.11.03

Category:講師

「獅子の生きかた」武重邦夫(プロデューサー)

 

たしか昭和47年(1972年)の夏だった。

事務所に戻ると、 今村監督が8ミリフィルムを洗濯挟みで部屋中に吊り下げ老眼鏡で覗いている。
驚いて聞くと、 旅行業者のN青年に頼まれて編集しているのだという。
更に聞くと、N青年のツアー客が撮った香港旅行のフィルムで、余りにデタラメに撮ったのでN青年が困って持ち込んだと判った。

 

N青年は30歳。本業は香港専門の宝石ブローカーで、今村さんは彼のちょっと不良がかった処が好きで出入りを許していた。

天下の巨匠が何でそんな馬鹿なことをしてるのか訝り、「やめなさいよ」と進言すると、
「お前も手伝え、ナレーションを書くから音楽を入れてくれ」と逆にスタッフにされてしまった。
プロの映画屋が、素人が気まぐれに撮った8ミリを編集するなんて狂気の沙汰だ。
ところが、今村さんは二日二晩精魂込めて8ミリと格闘してストーリーを完成してしまったのである。
おまけに、ナレーションまでも書きはじめている。僕は仕方なく音楽を選び仕上げ作業にかかることにした。
しかし、最初は“なぜ、大監督がこんなことを?」 と思っていたのだが、
老眼鏡を手に懸命に8ミリフィルムと格闘している今村さんの姿を見ているうちに、次第に僕の中に不思議な感動が湧き上がってきた。

 

それは、こんなゴミフィルムを編集するのに、

今村さんは、「にっぽん昆虫記」や「神々の深き欲望」と相対すると同じエネルギーをつぎ込んでいたからである。
僕は何故か今村さんの姿にアフリカのライオンを重ね合わせていた。
ライオンはネズミのような小動物を捕らえるときも、野牛を倒すのと同様に渾身の力を振り絞ると聞いていたからである。
あれから30数年の歳月が流れた。
その間に、今村さんはゴミのようなCMを何本か頼まれて作り、また、カンヌのグランプリ受賞作品を2本も作った。
最近、老ライオンは机に向かい脚本の資料をゆったりと天眼鏡で眺めている。
昔のように咆哮することはなくなったが、ライオンとしての風格は微塵も揺るいでいない。

 

これは2003年の「しんゆり映画祭」のサイトに書いたものである。

僕が記事を書いてから3年後、2006年の5月30日に今村さんは79歳の生涯を閉じた。
26歳で今村プロダクションの設立に参加し、35歳で師匠と共に映画学校を創立した僕には切ない思い出だが、
光陰矢のごとしで既に3年半の時間が過ぎ去った。
そして、僕が最後の1年生ゼミで受け持った学生達も、間もなく卒業を迎えようとしている。

 

僕はこの10年、卒業生のプロたちと地方を舞台にした映画作りをしてきた。

10年でたった4本しか完成してないが、それぞれが熱のこもった力作で、
プロデユーサーとしては満足している。そうは言うもの、製作中は監督やスタッフたちとの戦いで老いた身は葉疲労困憊する。その大きな要因はデジタル化の進歩で撮影が簡単になった事の様に思える。撮影現場でカメラを向ければ何でも写ってしまう。
ポストプロの作業もコンピューターが数値を記憶してくれるので、繰り返し作業や試行錯誤のプロセスが少なくなる。

 

「はい、取りあえずできましたが・・」などと言って出来合いを見せにくる。

「取りあえず?・・だって!」僕は神経を逆撫ぜされ、頭に血が上り激昂する。
「モノを作るのに取敢えずはないだろう! 目一杯やってから見せに来い!」
こうした時は、吾ながら厭なプロデユーサーだと思う。
だから、時には不満でも仕方がないと諦めてしまうこともある。

 

そんな日は、己の偽りに自分自身が惨めな気分になり眠られなくなる。

「お前も・・取りあえずで済ますんだ・・」何処からか今村さんの声が聞こえてくる。
「作品はみんなの情熱と努力の結晶だ。全力を振り絞り作るのが映画じゃないのかい」
静かな声だが僕は心臓をえぐられ、翌日、「やり直そう」とスタッフを鼓舞してやり直す。

 

あの声は本当に今村さんの声なのだろうか? 

もしかしたら、自分自身の心の声なのではないのか?
いやいや、そんな事はどうでも良いことなのだ・・最近はそう思うようになった。
そうだろう? 渾身の力を振り絞って作るから、映画は面白いのである。

 

 

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