2009.12.01

Category:OB

『差別や偏見という枠を越えて捉えられる共通の想い』都鳥伸也(映画プロデューサー)

 

僕たちは、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(監督・小池征人/製作総指揮・武重邦夫)というドキュメンタリー映画を作った。
岩手県盛岡市にある児童養護施設「みちのくみどり学園」の記録である。
現在、児童養護施設に入っている子どもたちの多くが、児童虐待の被害を受けて、児童相談所を介して、入所している子どもたちである。そんな現状を映画という媒体を通して、広く一般の方々に「社会的養護」のあり方について意識を持ってもらいたいという願いから今回の作品は生まれた。
しかし、上映をやってみると、いかに当事者たちが、偏見の目で見られているかを実感した。特に加害者となってしまった親に対しての理解不足はかなり激しい。
『葦牙-あしかび-』には、二人の母親が登場する。どちらも実際、加害者となってしまった人たちである。
しかし、僕たちは、この問題を加害・被害の問題ではないという目線を持つことを大切にしながら、制作に挑んだ。
加害・被害の問題として捉えるのは簡単なことだが、それでは、この問題は解決しない。
今、この問題に取り組む人たちが一番、骨を折っているのが、虐待をしてしまった親のフォローである。虐待を受けた子どもを守る施設やプログラムはあっても、親をフォローし、再び家族として生きていける環境を作ることは取り組まれて来なかった。
しかし、児童虐待の問題の解決は、親と子、双方の回復があって、初めて成り立つ。
そこで、現在、専門家たちの間では、様々な取り組みが行なわれている。虐待をしてしまった親も、育児の戸惑い、悩み、苦しみの末、子どもに手を出してしまったのであるというところに、この問題の難しさがある。
昔であれば、地域でこどもを育てられた世の中だったのに、今は核家族化も進み、隣近所の交流も減り、一極集中で、全ての負の部分が母親に覆い被さっている状況がある。
一人で子どもの面倒を見、手が回らなくなり、ノイローゼになってしまい、怒りや苛立ちの矛先が我が子に向かうと言うのは、必ずしも、こうやって子どもが施設に入っている親だけの問題ではないようだ。
ある女性が幼稚園で『葦牙-あしかび-』の話題をしたとき、他の子のお母さんたちから、「私も似たような経験がある」という告白を聞き、驚いたと言う話がある。常時ではないが、突発的に自分のこどもに手を出してしまったという親は、意外といるようである。話によると、その場が、育児の悩みを打ち明ける感じになり、とても興味深かったという。
自分とは他人事、別世界と思わず、身近に置いて、映画を見つめていただくと、意外と身につまされる場面が、この映画には多いと思う。
しかし、残念ながら、この映画を観る際に、「児童虐待」という強烈なイメージを念頭に置いて観てしまうために、曲がった目線で、インタビューに応じてくれた母親たちを捉えてしまい、誤解される方々も一部にはいたようだ。
どうして、人間は自分と比較し、否定する対象を作りたがるのか、ここでも差別や偏見の問題とぶつかる。
どうか児童虐待という言葉のイメージを、一度、頭から取り払って、映画をご覧になってほしいと思う。
きっと、また違った映画の観え方になるハズだし、自分たち自身の問題として感じられる部分もあるハズだ。
同じ人間なのだから、どこかに欠点はあるし、間違いもある。大小の違いはあれど、共感出来ることは必ずある。そして、この映画に出た人たちの復活の兆しにエールを送っていただければ、と心から願うばかりだ。

 

(※ みちのくみどり学園に入所している子どもたちの全てが被虐待児ではありません)

 

(日本映画学校 映像科16期生)

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