2010.01.05

Category:学生

「一所懸命」徳田健悟(映像科1年)

 

僕は、三回死に掛けた事がある。
1、阪神淡路大震災
僕がまだ6歳の出来事だった。早朝、ドンという爆音と共に僕は飛び起きた。
訳もわからず呆然としている僕を母は妹と一緒に抱きかかえ家から飛び出した。
外に飛び出すと、景色が変わっていた。今でも、あの光景は僕の瞼の裏に焼きついている。
見慣れた街は、まるで空爆を受けた様に遠くの景色まで見えていた。
いつも通っていた駄菓子屋も隣の優しかったおばさんの家も、そして自分の家までもやがて炎に包まれて行った。
それから10年、僕は生まれた街に戻ってきた。あの当時の惨状は何も無かったかのように生き生きと動く街がそこにはあった。

 

2、遭難
それは、僕が小学6年生の夏だった。前述の震災の影響もあって、僕たち家族は神戸から少し離れた滋賀に引越した。
そして、震災の記憶など忘れていた僕は、例年通り琵琶湖で海水浴ならぬ湖水欲を楽しんでいた。遠浅の辺りで泳いでいた時だった。
もう疲れたからと湖岸に戻ろうとした時、僕は気が付いた。僕は沖に流されていた。
その瞬間、僕の頭の中に「遭難」という言葉が浮かんだ。小学6年生の自分でも分かった。
でも、僕は不思議と怖くなかった。助けを呼ぶ声も出さず、僕はただ青い空と湧き立つ入道雲を眺めていた。僕が覚えているのはその映像だけだ。
覚えている次の映像は病院の天井だった。どういう経緯で助けられたのか何処を彷徨っていたのか、僕は覚えていない。
今でも夢なのではないかと感じることさえある。でも、家族はその事実を覚えている。
昏睡状態で二週間、生死を彷徨っていた間の映像も覚えていない。

 

3、強盗

これは、僕が19の時の話。僕は、アジアから東欧にかけて一人旅に出かけた。急に僕は旅に出ようと思い立った。
僕は、高校を卒業して進学も就職もせず、ただフリーターを続けていた。
自分で選んだ環境なのに、僕は今の環境が不満だった。ただ過ぎていく毎日や、ネガティブばかりの社会に僕は腹を立てていた。
刺激的な何かが僕には欲しかったのだと思う。不純な動機もあって、家族は大反対をした。死にに行くのかと言われた。
僕はその当時頑固だった。ある日、フリーターの時に貯めた金を持って僕は日本から飛び出した。
インドから出発してサウジアラビアに着いた時、事件は起こった
街中で突如、暴漢に襲われた。彼らは、僕に冷たい銃を押し付け拙い英語で「マネー、マネー」と言った。
僕は「そんな、金は持っていない」と英語で話しても、相手は言葉が分からずただ「マネー」と叫ぶばかり。
押し付ける銃が強くなり、もう駄目だと思ったとき、一人の男性が僕のほうに駆け寄って来た。
彼は、僕の分からない言語で暴漢に話しかけた。
すると、暴漢は僕の前から離れて行った。彼は、私に微笑んだ。
彼は、サウジアラビア在住の邦人で日本人の僕を見つけて助けようと思ったらしい。
僕は、彼に一人旅をしている事を話した。
すると、彼は泊まる所を探しているんだろうと親切にも自分の家に招待してくれた。
翌日、彼にお礼を言い僕は東へと旅立った。
彼は言った。「ここから先はもっと治安が悪いよ」と。
そして、僕は歩き出した。 でも、確かに僕は今生きている。死なずに済んだ。

 

今、僕は改めて思い出して見た。
僕は死に直面した時、それほど怖くなかった。
むしろ、僕が死ぬという感覚が湧かなかった。一人旅から帰り、日本に着いた時僕は思った。
日本は平和なんだと。
夜、女性が一人で出歩いても、路地裏の道を一人で歩いていても、誰にも襲われる事は無い。
僕たちは、盲目なのだと感じた。平和と言うフィルターを通して、見ているこの世界はとても素晴らしいのだと。
改めて思う。よく人から言われる命を懸けて頑張りなさいという言葉、少しながら僕は分かったような気がする。
日本映画学校で僕は、一所懸命頑張りたい。

 

(日本映画学校 映像科24期生)

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