2011.12.20

Category:OB

「漫画家になりました」菅原敬太(漫画家)

 

初めて観た映画はアニメ「人魚姫」だった。
両親に連れられ、僕は弟とワクワクしながらスクリーンに釘付けになった。
ビデオなんてもちろんまだ普及されていない時代。
「映画を見に行く」ということ。
僕が住んでいた町から、映画館までは、車で2時間かかる。
それは自分にとっては、特別な一大イベントで、何よりも楽しみだった。
子供の頃に暗闇の中で見た「キングコング」や「スーパーマン」。
今でもその映像の数々は、鮮明に脳裏に焼きついている。
いつの間にか見るだけでは飽き足らなくなり、作る側へと興味は移行していった。
高校時代は8mmで映画(のようなもの)を撮ったりしていた。
そして高校を卒業と同時に上京。

 

僕は日本映画学校へ入学した。
地元では映画の話なんてほとんど出来なかったが、
ここでは思う存分、映画の話が出来る。
「自分と興味を同じくする人間がこんなにもいるのか」
仲間を得たこと自体が、驚きであり、大きな喜びだった。

 

演出と美術、そのどちらもやりたいと思っていたが、
迷った末に、僕は美術ゼミを選んだ。
絵を描いたり、物を作ったりすることが得意だったという単純な理由だった。
美術専攻とはいえ、演出、ドラマ造りの勉強もする。
作品を企画書から、撮影、編集、すべての作業を美術ゼミで行う。
友達の家に泊まり込んでセットや小道具を作ったり、企画を練ったりする日々。
意見の相違からケンカすることあった。
ーーいいものを作りたいという思いは同じなのに、かみ合わない。
技術的な事だけでなく、精神的な側面も含めて、学ぶことは多かった。

 

映画の制作現場における美術というのは魅力的ではあるが、
美術にいるからには、演出、ドラマ作りには参加できない。
僕はとにかく全部に関わりたかった。
自分の世界観を表現するということには、どうしてもこだわりたかった。
そこで音楽へと表現の場を移した。
そこでは、自分の世界観を表現するコトが自分なりにはできたと思う。
しかし、それでも自分だけの表現とはいえない。
どこまで我が強いのかと我ながら思う。

 

そして、漫画にたどり着いた。
30代後半にして、僕は漫画を描き始めた。
漫画は、ストーリー作りや作画など、あらゆることが映画作りと共通している。
美術、演出、ドラマ作り、そのすべてを自分のやりたいように表現出来る。
日本映画学校で学んだことが、すべて生きている。

 

映画へ、音楽へ、そして漫画へと、
僕の表現は変わっていっている。
この先、どう変わっていくのか、
自分でも分からないし、楽しみでもある。

 

(日本映画学校 映像科5期生)

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