──上京してカルチャーショックを受けたことはありますか?
「学校の近くに」と思って生田という町に住んだんですけど、小田急線の生田駅は各駅停車しか停まらない小さな駅だし、若者と言えば明大生(明治大学生田キャンパスの学生)が歩いているくらい。
川沿いで自然にも恵まれた地域なので、田舎からの上京組がショックを受けるほどの衝撃はなかった。都会に染まることなく、すんなりフェードインできました。
──(笑)。学校はいかがでしたか?
俳優科は「自分、役者になれるんじゃねえかな」って勘違いしたヤツらの集まりでもあったので。各田舎の学校で、ちやほやされていたんでしょうね、68点くらいの男前が多かった。
「気まずさを学ぶ」という説明が
腑に落ちた農村実習
──学生生活で得たものはありますか?
意外と多いです。タップダンスとジャズダンスの授業は役に立っていないですけど(笑)。当時は農村実習というものがありまして……。
──名物実習ですね。1週間程度、泊まり込みで農家を手伝いに行くという。
まわりのみんなは「なんでそんなことをやらないといけないんだ」って言ってましたけど、パンフレットには「他人の家に宿泊し、気まずさを学ぶ」みたいな一文があって、「なるほどな」と感じたんです。
『男はつらいよ』のおもしろみって、人間同士の絶妙な距離感ややりとり。そこに通じる取り組みだなと感じましたね。
──総じて学校生活はどうだったんでしょう。
楽しかったです。友だちもたくさんできました。「役者になりたい」という同じ目的を持っている同士だから、つき合いは濃くなるし、関係はいまも続いています。
映像科にも友だちはいて、それが縁で映画やドラマに出演させてもらうこともあります。振り返ると……ダンスの授業以外は真面目に通っていましたね。
はっきりとした道筋が
見あたらなかった
──ネットの情報によると、在学中に芸人コンビを組まれていたようですね。
内海佳子師匠が講師で来てくださった漫才の実習があって、そのときの即席コンビを誰かが勝手にネットで紹介しているだけです。自分では芸歴として勘定していないので。
──卒業後、すぐに芸人活動を始めたんですか?
ぜんぜんです。昔なら、幕間でコントをするべくストリップ小屋に飛び込んで行く、という道筋があったんでしょうけど、明確なルートがわからないままでした。当時は借金をしながらバイトをして、生活するので精一杯で。
──夢や希望は抱いていたのでは? 強い想いがないと、バイト生活は続けられないですよね。
「いつかどうにかなるのかな」という、東京に住む若者特有のだらけた生活で……。チャレンジをして失敗するのが怖かったんだと思います。成果が出なかったら、もう東京にいられなくなるんじゃないかと。
友人の舞台を鑑賞しながら
「自分はこっちではないのかも」
──その頃のお住まいも生田ですか?
小田急線をさかのぼって世田谷代田という、下北沢の隣りの町に越しました。下北沢よりもちょっと安い、でも「シモキタです」と言ってもギリ、嘘にならない(笑)。
──金銭的には苦労しながらも東京ライフを楽しんでいた?
そうですね。仲間が出ている小劇場演劇を観に行ったりしていました。観ながら、「自分は演劇ではなく、映像を通してなにかをしたいな」と感じていましたね。
そんなときに映画学校の同級生から「一緒にやらないか?」と誘われて、やっと一歩を踏み出すわけです。
──それが卒業4年後。さらに2年後、そのコンビを解消した2006年に……。
いまの相方と組みました。学校は違うけれど、以前から知り合いで、お互いピン同士になったところで「じゃ、組もうか」と。