2006.10.02

Category:講師

「映画のまんなか」緒方 明(映画監督)

 

日本映画学校映像科では3年間で多数の実習作品を制作する。
主だった実習は学生や担当講師がコンペ方式で脚本、監督を選定するシステムだ。もちろんチャンスは均等に与えられる。各講師は脚本指導という名のもとに学生たちの汗水たらして書いた脚本にしつこく何度もダメ出しをくりかえす。学生たちも必死だ。何とか自分のホンが選ばれるべく少ない経験と知恵をしぼりつくして稿を重ねていく。
そんな彼らに対して私がいつも投げる言葉はこれだ。
「この映画の真ん中には何があるんだ?」
自分でも難しいこと言ってるなあ、と思う。
一体、映画の真ん中には何があればいいのか?俳優か、物語か、映像か。

 

今年の夏、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)の最終審査を担当した。
PFFといえば自主映画作家の登竜門。自分たちの手でスタッフ、キャスト、資金を集めて文字通り「自主的に」制作された映画たちがしのぎを削るコンテストだ。
かくいう私も25年前『東京白菜関K者』という作品で入選したことがある。今年で28回目を迎えるPFF。今回はついに最終審査を受ける18本の中からフィルム撮影の作品が消えた。すべてデジタルビデオ撮りの作品。簡易で安価なテープを使って編集、録音等の技術も当時と比べ格段に進歩を遂げている。
果たして四半世紀の時は「自主映画」をどう変えたのか。そのことを探すために審査員を引き受けたふしもあった。その真ん中には何があるのか?

 

18本の作品を観終えた私に訪れた感情は「何だ、何も変わっていないじゃないか」だった。
誰からも依頼されてないのに映画という「魔」にとりつかれた者たちが産み落とした作品群。その真ん中にあったのは「映画を作りたい欲望」だ。「衝動」と言ってもよいだろう。
いわゆる商業映画には作られた「理由」が存在する。それは「経済」だったり「事情」だったり「政治」だったりする。
だが結局はスクリーンから照射される作り手の「衝動力」が強いもののみが人の心を動かせるのではないか。

 

これは学生が作る映画でも全く同じだ。映画には様々なものが必要だ。潤沢な制作費、優れた技術、豊かな才能、だがそんなものはいつも足りないようになっている。例えつたない作品でも観客が作り手の「意志」をスクリーンに見出した時、心はざわめく。
日常では出会うはずのない作家と観客が作品を通じて「つながる」時、それこそが映画が幸福に光り輝く瞬間だ。映画の真ん中に自分の意志はあるのか、今日も私は学生に、そして自分に問い続けている。

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