2009.10.20

Category:OB

「自分のルーツ」 金城智子(八重山古典民謡コンクール最優秀賞)

 

30才目前、手当たり次第に演技のワークショップに参加していた私。
その中で、自分が何者なのか分からないままでは役を演じることはできないと感じ、まずはそれまでの環境を一変してみようと思いたちました。
言葉も考え方も生活様式も全く違うどこかへ行って、自分を試してみたかったのです。
その為に私は、主に海外に拠点を置くリゾートホテルに就職し、日本脱出を試みました。

 

しかし、研修地に選ばれたのは沖縄石垣島、奇しくも亡き祖父の故郷でした。
沖縄本島からさらに南へ350km。
今も尚、昔ながらの文化、風習が息づく島です。
祖父は若くして上京していた為、頼れる人は誰もいませんでした。

 

ここでの生活が始まって2週間が過ぎた頃、ホテルの中で行われていた三線教室に何気なく参加しました。
心地よい音色にあわせ、沖縄ポップス「花」を口ずさんでいた私は、「あんたは沖縄の人だね、唄を聞けば分かる」と声をかけられました。
これが恩師である西垣竹三先生との出会いでした。

 

私は横浜出身であることを伝えると先生は大変興味を持たれました。
「民謡を始めたら、きっと唄があんたを助けてくれる」
この先生の一言に私は、言葉にできない何かを感じ、すぐに仕事を辞め、スーツケース1つで先生の家の門を叩きました。
どこの誰かも分からない私に、先生は唄だけではなく、島での生活や、果ては人生のことまで本当に熱心に教えて下さいました。

 

先生は毎日稽古に来るようにおっしゃいました。目標は年に1度のコンクールで賞を頂くことです。
毎晩、熱心に稽古を見て下さり、夕飯まで出して下さいました。
たまに、「今日はいいかな」と思っても、
「早く来なさい。あんたは何をしにこの島まで来たの!?」と必ず携帯が鳴り、本当に毎日毎日唄い続けました。
何故、唄っているのか、不思議とそこに迷いはありませんでした。
むしろ、ここまで熱中できることに出会えた喜びでいっぱいでした。

 

そして、8ヶ月後、コンクールで無事、新人賞独唱を獲得すると、先生は観光客向けの三線体験教室の仕事を与えて下さいました。
まだまだ教わりたいことが多いのに人に教えるなんて・・・。
私は、不安でいっぱいでした。
しかし、人に教えることで、より自分も向上できるし、何より好きなことで生活できる環境が大事だと勧めて下さいました。
私がきちんとした指導をしなければ、先生の顔に泥を塗ることになる。それを承知で勧めて下さる先生に、頭の下がる思いがし、引き受けました。
島での生活を続ける内地の人を“島ナイチャー”と言います。その私が、島と内地の良い架け橋となり、石垣の良さを伝えることを一番に考えました。
結果、体験教室にもかかわらず、旅行中、毎日訪れる方もいらっしゃる程、楽しいものとなりました。

 

2年目は、優秀賞を頂きました。このコンクール出番直前に、私は一本の電話を受けていました。
それは、新聞に取り上げられた私の記事を見たあるおじいさんからでした。
「僕はあなたのおじいさんの教え子です。おじいさんは、本当に唄の大好きな方だったから、新聞であなたのことを知って驚きました。頑張って下さい」
私は、この電話を切った後、涙が止まりませんでした。

 

祖父は、上京する前、小学校で教師をしていたのです。わざわざ電話を下さるくらいなのですから、きっと良い先生だったのでしょう。私は天国の祖父から頑張れと言われた気がしました。
このことが、私の唄への思いを確信に変えました。

 

そして4年目。先生のご指導のお陰で、念願の最優秀賞を頂くことができました。
偶然にも小学校の先生と結婚もして、三線での活躍を喜んでくれる家族もできました。
「唄が助けてくれる。」
先生の言葉を今、実感しています。

 

民謡は今も生活の中で耳にすることが多く、祖父も同じ唄を聴いていたかと思うと感慨深く、継承していく喜びもあります。
懸命に自分を探していた私は、自分のルーツの中に自分を見つけました。
演技とは違うかもしれませんが、これからも唄を通して、自分なりの表現をしていきたいと思っています。

 

(日本映画学校 俳優科9期生)

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