2010.12.07

Category:教員

「映画の勉強」 中原 俊 (映画監督)

 

映画はどうやって勉強すればいいんだろう? 
『神々の深き欲望』(‘68 今村昌平)を見終わったばかりの高校二年の私は、夜の街を鹿児島から下宿先の隣の谷山市まで自転車を飛ばしながら考え続けた。
なんだかすごいものを見て、瞬きするのも躊躇われるほどだったのに、ストーリーが並ばない。
青い海に浮かんだ赤い帆の小舟や大きな石、蒸気機関車、仮面の男たち等々が次々に悪夢のように頭の中を駆け巡り、全体像を結ばせてくれない。
私の中には、この映画を考える言葉がなかった。そしてそれはどうしたら手に入るのかさっぱり分からなかった。

 

ものごころついたころは映画は娯楽の王様だった。映画の黄金期50年代ですから。
街といえば映画館とデパート。この二つに月に一度連れて行ってもらうのが最大の楽しみだった。
ところが中学になったとたんに映画は禁止になる。勉学の妨げになるというのと良からぬことを覚えるというのが大きな理由らしい。
大学生になるまで我慢しろというのが60年代の常識。ニワトリが先か卵が先か、映画も任侠路線とピンクに染まっていく。
そんな時代だから学校の図書館には映画の本は一冊もなかった。

 

キネマ旬報、映画評論、映画芸術等の映画雑誌が教科書になりそうだったが、田舎(鹿児島のことです)にはハンディが大きかった。
当時市内には20を越える映画館があったと思うが、よくそれらの雑誌で取り上げられるアメリカンニューシネマやATGをかける映画館は一館しかなく、それも都会で興行が成立した作品に限られ、しかも半年遅れだったりする。
じゃあ残りの映画館何をやってたかというと、邦画五社とハリウッドメジャーの作品を一番館、二番館、三番館と順次上映していくだけ(これをブロック・ブッキング制と言います)。
どちらも凋落の一途で、いきおい雑誌には50年代映画の素晴らしさが比較される。しかしその映画は言葉で書かれるだけで決して見ることができない。
「結局、いい時代に生まれたもの勝ちさ」と引かれ者の小唄。という理由もあって、唯一都会と同時に見れ、しかも新しい力と評されていたピンク映画にのめりこむのだが、それはまた別の話。

 

映画用語もネックだった。
映画通たちの駆使するヴォイスオーバー、ドーリー、リゾルヴなんて言葉はは辞書にも載ってないし、本屋を探し回っても、映画用語辞典は売ってなかった。
なにしろ映画を撮っているところを見たことが無いのだから解説されてもチンプンカンプン。
当時はメイキイングなんてなかったんです。
『アメリカの夜』という映画を撮っている映画があることは知っていてもその映画を見ることができない(20歳でやっと見れました)。
いまならその手の解説書はたくさんあるけどね。

 

ぐちをこぼしてもきりがないのでこれくらいにしておきます。
結局は東京に出て名画座に通うしかないと結論づけ、‘70年に上京し地図を片手に、駅前の映画看板の前で今日の映画を探す日々が始まるのです。
まだ「ぴあ」もない頃、ポスターからの情報が一番信用できた、パソコンも携帯もビデオもない時代の話です。
それにくらべて皆さんは恵まれているという気持ちはさらさらありません。
簡単に手に入らないから渇望し、努力する力が湧くのは事実です。いつでも見れると思うとついなおざりになります。
それはよくわかります。でも声を大にして言います。先人の遺産にあたるのはまだよく映画がわかってない今しかないと。
いろんな情報を得る前に見ることで(映画は見ればわかるようにできてます)流行や時代にとらわれない自分の<おもしろい>を発見することができます。
そしてそれがいちばん大事な映画の勉強だからです。

 

(日本映画学校2年映画演出コース担任)

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