2007.11.05

Category:OB

「内から外へ」大澤一生(ドキュメンタリー制作)

 

僕たち(30を超えているがあえて僕たちと書く)の世代は、共有できるようなイデオロギーはとうの昔に失われ、何を信じればよいのかわからない漠然とした閉塞感の中で生きてきた。ドキュメンタリー制作において、何らかの歴史や事象、他者を撮ろうとする時、常に作り手の主体が問われる。「お前はなぜその対象を撮るのか?」。作品中で声高に言わなくとも、完成した作品ににじみ出てしまうその「必然性」を作り手は常に問われ続けるし、向き合わざるを得ない。その閉塞感から興味のベクトルがより内に向かい、社会や世界との関係性を見出せずにいた僕たちの世代が、より必然性を感じることができる身近な家族、そして自分自身と向き合うセルフドキュメンタリーに向っていったのは必然だったと思う。

 

セルフドキュメンタリーに社会性がないとは思わない。どんなに内に向おうとも、ドキュメンタリーは時代を映す鏡である以上、日本映画学校でも数多く制作されたセルフドキュメンタリーもまた時代の閉塞感を映し出していた(それだけではなく家族や個人の中の普遍性を映し出してもいる。制作・編集を担当した17期卒業制作「アヒルの子」もそんな作品で、ようやく劇場公開に向けて動き出すので機会があれば是非ご観覧ください)ドキュメンタリーを基点として日本の社会や歴史を検証していくのであれば、その一群は90年代、00年代の日本を語る上で欠かせないものだろう。
だがしかし、セルフドキュメンタリーに社会性があったとしても内に向うだけでいいはずがないというジレンマを僕は抱えていた。21世紀に入り(もちろんそれ以前からもあるが)、日本の社会や世界はより混沌としてきている。ドキュメンタリーの対象として向き合うべきテーマがたくさんあるはずだが、自分たちの世代はセルフドキュメンタリーを経て何に向うのか。結局問われるのはやはり作り手の必然性だ。「お前は何者として撮るのか?」

 

僕が制作・編集として関わった「バックドロップ・クルディスタン」は、監督の野本大があるクルド難民一家と身近に接しながら、彼らの変遷を追った作品。野本はその家族と、個と個の関係性の中で撮影していたが、ある時点で「彼らはクルド難民である」現実を目の当たりにし、その彼らを撮る自分の主体のありかを探しあぐねていた。
野本もまた社会とつながっている実感が持てない世代で、「彼らについて自分が何も知らなかった」ことに負い目を感じていた。しかし、2人で話していく内に「世界のことを何も知らない、社会との繋がりを感じられない日本人の自分」であることをまず認め、そこからスタートしなければならないことに気づいた。
「社会性がない」ことを起点にすることはある意味で卑怯かもしれないが、その主体の在り方は今の日本に生きる若者のメタファーであると同時に、「知らない」からこそ、民族、宗教、国家等、現在の様々な対立、争いの基になっている幾多のイデオロギーに染まらず、他者の社会背景、歴史を謙虚に受け止められるのではないか。他者を他者と認めた上でそこから再び関係する、内に向うのではなく外へ展開する可能性を意識しながら、僕と野本は「バックドロップ・クルディスタン」を制作した。

 

「バックドロップ・クルディスタン」は、幸いにも山形国際ドキュメンタリー映画祭で奨励賞、市民賞を頂くことができた。審査員や観て頂いた方々に感想を聞いていると、作品に対しての様々な捉え方の中にも、作品の主体の在り方を評価して頂いている意見もあったようで、僕たちが伝えたいことが伝わっていたことを素直に喜びたい。
同時に、映画祭を通じてたくさんの人に自作を観てもらったことで、映画そのものが内から外へ繋げる装置であることを改めて実感した。僕自身、たくさんの映画の中から世界や人間の在り方を学んできたように、今後「バックドロップ・クルディスタン」がより多くの人にとって「世界」を知るきっかけになるよう願う。

 

(日本映画学校 映像科17期生)

>> 映画「バックドロップ・クルディスタン」オフィシャルサイト

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