2007.11.19

Category:講師

「『象の背中』と卒業制作」井坂聡(映画監督)

 

この半年間、二本の映画の制作に携わってきた。一本は現在公開中の『象の背中』の監督として。そしてもう一本は、映画学校卒業製作奥田組『スクランブルエッグ』の統括としてである。予算も規模も立場も、勿論プロとアマチュアの違いも、全ての面で全く異なる二つの環境の狭間で、いつしか「監督って何だろう」と考えていた。

 

二十数年前、映画監督になりたくてこの世界に飛び込んだ時の思いは「自分が考えている事や感じている事を映画という形にして、多くの人々に見てもらいたい」であり、それは今でも変わらない。しかし映画・テレビドラマを合わせて40本近く監督してきた現在、一体何本その初心に沿った作品があるだろうかと振り返ってみると、これが中々難しい。全部そうだとも言えるし、ほとんど違うと言えなくもない。それは監督というポジションの難しさに直結した悩みである。

 

世間的には映画監督は絶対者のように見られている部分もあるが、現実はそんなものではない。特にバジェットが大きくなればなるほど監督に対する制約はきつくなっていく。それは例えて言うならば大企業のトップが自分の意思だけで経営方針を決められないのと同じことである。勿論、多方面から検証しチェック機能を働かせることは大事なことではあるが、その度が過ぎると、選ばれた監督なり経営者の個性を打ち消す危険性もある。残念ながらそういう不幸な現場にも何回か遭遇した経験がある。それはともかく、ある種合議制の中で進められる現場で、監督はどこで個性を発揮しイニシャチブを握るのか。

 

結論から言うと、監督の個性は、作品に流れる哲学と監督の生きざまが合致した時に最大限に発揮される。逆に言えば、それが成り立たない時には自分の監督作品とは言えないということである。脚本をどう切り取り俳優にどう演技をつけるのかには、監督の生きざまが否応なく反映される。それ故、企画が提示された時に私が真っ先に検討するのは、自分自身とその企画がどこで接点を持てるかということである。企画全体では難しいものでも部分的に乗れるところがあれば、そこに魂を込めることによって井坂作品という『印』を刻むことが出来る。初心に沿った作品という問いに簡単に答えられないというのは、その接点の割合が高いものもあれば低いものもあるからという理由である。しかし、接点のなかった作品は一つもないという事だけははっきりしている。

 

最初の問いに戻ろう。映画監督の仕事とは、映画作りに関わる全ての人にその作品の哲学を指し示すこと。学生諸君を見ていて、改めてそのことに思いを深くした。

 

(日本映画学校 映像科3年映画演出コース担任)

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