2010.12.28

Category:講師

「わが師を語るー今村昌平監督」 武重邦夫(プロデューサー)

 

昭和41年(1966年)1月の深夜、今村組は大阪の京橋で「人類学入門」の撮影をしていた。

その年の冬は猛烈に寒く、僕ら製作部員はどぶ川沿いの長屋の前で震えながら撮影が終わるのを待っていた。

 

ロケセットに借りた長屋の部屋は狭く、必要最小限のスタッフしか中に入れなかったからだった。

 

その日の撮影は、主人公の小沢昭一と床屋の未亡人の坂本スミ子が絡む重要な場面で、午前10時から始まった撮影は夜の12時を過ぎても続けられていた。

 

午前1時を廻った頃、呼ばれて中に入る。

 

今村監督が入口沿いの壁を指差して姫田カメラマンと小声で話している。

 

監督は僕を見ると壁を叩きながら

 

「ラストカットはカメラがここに入る。至急、隣に交渉してくれ」と言う。

「はい」と答えたが、僕には監督が何を言っているか分らなかった。

 

ここは土壁1枚で仕切られている2軒長屋なのだ。壁の向こう側は隣の家の寝室かもしれない。 

「引き尻りが足りない。この壁に穴を開けて隣の家から撮る。分ったね」今村監督が少し苛らついた声で言う。

 

「分りました。明朝一番に頼んでみます」

 

「明日じゃない、今直ぐだ!」

 

「今? 隣は寝てますが・・」

 

「起こして頼み込め。急げ!」

 

監督は大声で怒鳴った。

 

夜中の2時に隣家との壁に大穴をあけ、台所に巨大なカメラを持ち込み撮影は行なわれた。

朝方の5時に撮影は終了したが、熟睡してるところを叩き起こされ、呆然とした顔で台所の隅に立っていたパジャマ姿の隣家のご主人の姿が今でも忘れられない。

 

「人類学入門」は今村プロダクションの第1作目の作品。僕は27歳、今村組に参加した最初の作品だった。

 

あの頃の今村さんは精悍極まる傍若無人な荒武者だった。30代で『果てしなき欲望』『豚と軍艦』『にっぽん昆虫記』と立て続けに問題作をつくり、『赤い殺意』という生涯の大傑作を完成させて1965年に日活撮影所を辞めた。次代を背負う鬼才監督と期待された今村昌平が日活から独立し、今村プロを設立したのにはそれなりの理由が在る。

 

前二作の脚本を担当した長谷部慶治と書き上げた『神々の深き欲望』が日活では重役会を通らなかったからだった。同じ頃、5社協定を不満とした石原裕次郎と三船敏郎が反旗を翻し、日本に独立プロの時代が始まった。今村さんは翌年『人間蒸発』をつくり、昭和43年に念願の『神々の深き欲望』を完成する。『神々の深き欲望』は叙情的な日本映画に稀な堂々たる叙事詩的映画だったが、悪天候のため撮影が2年間に跨り、今村プロは膨大な借金を抱えて倒産寸前に追い込まれた。

 

時に今村昌平43歳。今村前史は一旦ここで幕を閉じるが、持ち前のネバリで不死鳥のように甦り、映画学校を創設し2度のカンヌ・グランプリを受賞し、2006年5月30日に79年の波乱の生涯を閉じた。

 

新百合ヶ丘のアルテリオ映像館で今村監督の特集とトークが開かれた時、

司会の佐藤忠男さんが「今村さんは泰然とした紳士だったが・・」と僕に振ってきたが、僕は違いますと応えた。

 

晩年は確かにそんな感じもしたが、元来はセッカチでケチで負けず嫌いで獰猛な暴君だった。

 

大阪から東京の事務所に公衆電話でかけてくるが、10円を惜しみ「ひかり302号、ガチャリ!」と迎えに行く助手達を苦しめた。

 

撮影には惜しげなく億単位の金を使うが、弟子の僕や藤田傳は40年余でラーメンを2,3度ご馳走になっただけだ。

 

負けず嫌いの今村さんは人一倍頑張って傑作を生み出したが、麻雀で負けると翌日まで不機嫌で僕ら弟子どもを困惑させた。

 

僕らは不遇な監督を元気付けるために故意に負けるのだが、それが厭でゴジ(長谷川和彦)などは日活へ行ってしまった。

 

また、淋しがり屋で日曜まで助手の自由を拘束したのも有名な話だ。

 

助手の森安達夫などはデートも出来ず、「あんたたち奴隷ね」と風俗嬢から同情されたほどだった。

 

こう書くと、まるで人非人だが、僕らは心から今村さんを信じ敬愛していた。

 

今村プロは余りに貧乏で、監督が長い不遇な時間に耐えていたのを見ていたからだ。

 

超インテリだが獰猛な奴隷の親分を演じ、自ら率先して働いた。笑顔が実に良かった。

 

陽気で女遊びが好きで、底抜けに人間臭い人だった。いつも面白いことを考え、僕らに人間学を教えてくれた師匠だった。

 

今村さんは映画監督というより、その内部に荒ぶる魂と矛盾撞着する人間の多面性を抱え込み、己を偽ることなく生き抜いた類稀な巨きな日本人だった。

 

後に彼が日本映画学校の理念書として書いた「人間とは何と助平なものか・・」を読めば、肉体や欲望を有する人間の滑稽な所業に触れた上で、尚且つ、彼が人間の輝きや優しさや素晴らしさを求め続けていたことが分るだろう。

 

34年前に横浜に学校を作ったとき、今村さんは学校案内のパンフに『無人の荒野を目指せ!』と檄文を書いた。

 

彼は自ら荒野を突っ走り、僕らは師匠の背後に続き、卒業生たちはいまなお荒野を走り続けている。

 

(学校法人神奈川映像学園 相談役)

 

OB牧場>>http://www.tamajin.jp/degiorigi/OBbokujo/

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