2011.09.20

Category:学生

「『蛹』であれ」中川つよし(日本映画大学 1年)

 

オープンキャンパスにて、高校生たちの相談相手を務めたときのこと。
――キャンパスライフのブースには、この大学に通う学生がどんな生活を送っているのか、
生の声を聞きたい、という高校生がやってくる。

 

今の時代、大学選びは神経質になって仕方ない。子供にとっては十余年の人生で
最大のイベントになるのだろうし、親にとってもこれはとてつもなく大きな買い物である。
僕も通ってきた道だから、その不安や切迫感は分かるし、いらっしゃる方はみな真剣
そうな表情だから、僕も真剣に答える。

 

中でもやっぱり多いのはこの質問。

 

「学校生活は楽しいですか?」


僕は素直な気持ちを語る。

 

「ええ、もちろん、楽しいですよ」


飾りのない素直な答えである。が、短時間での応答が要求されるゆえ、いつもこの言葉の
真意を語れずにいる。この際だ、恐れ多くもこの場を借りて、きっちり語らせてもらいたい。

 

とりあえず、まずは例え話だ。

 

「この学校は楽しいですか?」


という質問を受ける。すると、僕がこう答えたとしよう。

 

「いいえ全然、楽しくも何ともないですね」


……そしたら彼(彼女)はどうするんだろうか。

 

「楽しくないなら、もういいです」


とでも言うんだろうか。

 

――あくまでも例え話である。が、ひねくれた僕の感性はどうしてもこの疑問を喚起
せざるを得ないのだ。純粋無垢な高校生の質問さえ、
「今ある日本映画大学が、無尽蔵の楽しさを提供してくれる場として存在するならば、
入学を考えてみようかな」
という風に解釈してしまうのだ。
前述したように、大学選びというのは不安だらけのものであって、子供にとっても
親にとっても大きな買い物である。だから当然、楽しい場所に進みたいという気持ちも
よくわかる。しかしだ、「日本映画大学=楽しい」の情報を基にこの大学を選ぶので
あれば、それはいささか危険な買い物であると思う。

 

その理由は後で語るとして、もう一つ多かった声を紹介する。

 

「将来は映画監督を目指しているのですが……」


同じ夢を持つ人間として、仲間に巡り会えたような喜びがある一方で、ついつ
いひねくれ者の僕が出てきそうになる。

 

「映画監督になるのは、実はとても簡単なことなんですよ」


これはあくまで心の声だが、しかし現実、家庭用カメラで映像を記録して、
動画サイトにアップして、
「これは映画だ! そしてこの映画を監督したのは私だ!」
と宣言すれば、誰だって映画監督になれる時代なのである。
だとすれば、若人の夢の真実は何だろうか。
「良い映画を作りたい。そのために勉強したい」
それが本心ということだろう。

 

しかしだ、「良い映画」というのはそもそも何なのだろうか。
人によって好みがあるわけで、人によって「良い映画」の解釈は違うわけで、
そんな中で万国万人共通の「良い映画」を作れるのかと問われれば、果たして
それはどうだろうか。
あるいは、人を感動させる映画が「良い」のだろうか。
それは間違いではないだろう。ただ、
「日本映画大学に行きさえすれば、人を感動させる映画を作れるようになる」
というのは幻想だ。

 

文化系の部活動を経験した人なら分かると思うが、たとえば技術的には大したことの
ない作品や演奏でも、何か胸に響くものがあったり、逆に高い技術のある作品・演奏でも、
何か物足りなかったり機械的で人間味が無かったりする。
つまり、何が人を感動させるかなんて分かったものではないのである。
これは恐らく、大学の講師人・プロの方々だって同じ思いなのではなかろうか。
「映画監督になりたい。
だから日本映画大学に行きたいんです」という人に、恐れ多くも偉そうに忠告することとなり
申し訳ないのだが、はっきり言おう。

 

この大学で教えてもらえることなんて全く何も無い。

 

……いや、正確には、教えることができない分野なのだ。
前述の通り、映画や芸術の良さに万人共通の尺度なんて存在しえないのだから、
当然、正しい映画の作り方・教科書なんてものは存在しえない。
だから、期待に胸膨らませて、
「ここで映画作りを教えてもらって一生懸命勉強したい」
と考える人が少なからずいると判明した以上、
「映画作りは教えてもらえる分野ではありません」
と但し書きをするのが、学生相談会で偉そうなことを語っていた僕の、その言葉
の責任なのだと思ったのだ。

 

先生が板書して、ここはテストにでますよ、大事ですよ、と教えてくれるような場所じゃない。
在籍さえしていれば無尽蔵の楽しさを提供してくれるような都合の良い場所でもない。
そう、大切なのは「場所」ではなく、「自分」なのだと思う。
先生方の話を聞いて、それを自分の中の原石とどう叩き合わせるか、あるいは自分
というもののあり方を根本から疑ってみるか。
この大学では――というか、芸術に携わるのなら、おそらくその力が必要となるだろう。
これが、高校生たちに語りそびれたことの全容だ(たかが一歳差くらいの自分が
何を偉そうに語るやら)。
楽しい大学生活を送りたくて、あるいは映画人にさせてもらいたくて、それでこの
大学を選ぶなら、それはどう考えても危険だと思うのだ。

 

ではいったい、この大学は何が楽しいというのか――それは前述したとおりである。
この大学には事前に楽しいことなんて何一つ用意されていない。
それは裏を返せば、他人から押しつけられる「楽しいこと」が一切無い、いわば縛りが
全く無い大学だということ。
ゆえに、自分だけの楽しみを思う存分模索できる。
いや、そうやって楽しいことを探求できること自体がこの大学の「楽しさ」なのである。
与えてもらえる楽しさなんて一切無い。

 

授業一つとっても、「これが大切です」とか「これが正しいやり方です」なんて
言われることはない。
それはつまり、一切の常識を捨て去って、とことん自由に考えて、とことん自分なりの
答えを追求して良いのだということだ。
教授がAと言ったらAなのだ、とか、そういうことは存在しない。

 

万国万人を感動させられる映画なんてありえない。
一人残らず感動させるような映画があるとすれば、もはやそれは映画じゃなくて洗脳だ。
ただ、そんな映画がありえないと理解してもなお、心を折らずに、それを実現できないか
求め続けるのは自由だ。
不可能を不可能と知ってなお、可能にしてみせようじゃないか、という反骨的なロマンに
浸ったっていいじゃないか。

 

……アゲハ蝶の幼虫は、蛹の中で自分の体をどろどろに溶かして、そうしてようやく
蝶になるのだという。
「自分」で蛹になり、「自分」で自分をどろどろにし、「自分」で殻を割らない限りは、
蝶になることは到底出来ない。
ただ、それを覚悟した上で、それを大前提とした上で、それでもここを目指すと言うなら、
きっとこの大学は、蛹である僕たちの宿り木になってくれる、そんな
「場所」なのだ。

 

ここまで語ってようやく本心が言える。
まさか最後だけ読んで夢膨らませる人がいないことを切に願いつつ、この長文駄文を
結ぶこととしよう。

 

「日本映画大学は、日本で一番楽しい大学です」


( 日本映画大学 映画学部 1期生)

 

 

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