2023.08.31

Category:教員

カンボジアUNTAC総選挙から30年、2023年総選挙といま

~「政権交代」は遥かかなた、フン・セン政権内での「世代交代」のみが進んだ~

日本映画大学名誉教授 熊岡路矢
日本国際ボランティアセンター(JVC)元代表

 

 

 

今回、「カンボジア紛争とNGOの40年」の映画制作撮影(主にインタビュー)活動で、カンボジアとタイを訪れた。両方とも総選挙を終えたばかりの時期であった。カンボジア総選挙(7月23日投票/開票日)に関しては、グループの別メンバーが取材を行った。

2023年7月23日総選挙

今回2023年7月23日総選挙での与党「人民党」の「圧勝」は、最大野党「キャンドル・ライト」党の強制排除(5月決定)で、決定的であったが、前回第5回総選挙(2013年)以後の状況を以下に簡単にまとめてみる。(前回の2018年総選挙では、当時の最大野党「救国党」=55議席の強制解党で、125議席全議席を人民党が独占という異常な状態となった。いずれも、1991年成立したカンボジア包括和平協定および1993年に制定されたカンボジア憲法の規定=自由・公正選挙、人権重視、民主的発展などの諸原則を無視したものである。)

(* カンボジアでは、1993年以来総選挙は五年毎に実施。総選挙前年に必ず地方選挙(行政村レベルの選挙)が行われ、政治・選挙動向は、この二選挙のモニター・分析が必須。)

① 2013年の第5回総選挙では、その一年前の2012年の地方選挙で、当時の最大野党「サム・ランシー党」が、約20%の投票率を得た。そして、さらに同党と、他の野党「人権党」(ケム・ソカー代表)が合同し新野党「救国党」が成立し、2013年総選挙では、この「救国党」が、得票率・投票数・議席数で、与党「人民党」に肉薄した。議席数で(与党68議席 対 野党55議席) 一部の選挙監視団体、監視員は、与党の不正得票を除くと実際には野党が勝っていたという分析もしていた。

② 2013年のこの時点では、近い将来の政権交代も可能に見え、野党支持者も拡大した。しかし同時に、大きな危機感をもった与党/「人民党」=フン・セン首相(現在、70歳)は、2018年の次回総選挙に向けて強力な「反撃」に出る。後半の文章にあるように、政府に批判的な人権、民主化、環境NGOへの攻撃、スタッフ逮捕、また政府批判メディア「カンボジア・デイリー」にはとても支払えない税額を課し、事実上の廃刊を決定した。最後は、当時の最大野党「救国党」を強制解散させ、完全に排除した。

③ 昨年の地方選挙では、大きくは「サム・ランシー党」を継ぐ、「キャンドル・ライト党」が22%を超える投票率を獲得した。政府与党からの圧力が非常に強い中で、しごとや日常生活、家族やこどもの将来にも縛りが入るなかで、政権交代にすこしでも近づけたいと望む人々が相当数いた訳である。いまは国内にサム・ランシー(74歳)などの国際的にも著名な政治家はいない。実質的に亡命中である。またケム・ソカー元「救国党」代表(70歳)は国内にいるが、国家転覆罪などの重罪で裁判中であり、自宅内軟禁が続いている。

昨年の地方選挙の結果を、今年2023年の総選挙に当てはめれば、無論政権はとれないものの、25議席から30議席を獲得する可能性は十分にあった。

④ この状況に対して、一昨年フン・セン首相と政府与党は、フン・センの長男フン・マネット国軍副総司令官(米陸軍士官学校卒業)を後継に指名した。国家の家族支配である。マナエトは、今回初めて立候補し当選した。カンボジア下院(国民議会)は、フン・セン首相の辞任表明を受け、8月22日に正式に新首相の就任を承認した。

(詳細は省くが、政府は、いくつかの形式的理由、反政府誹謗などの理由で、最大野党「キャンドル・ライト」党を総選挙に出る資格なしとした。このような状況が続き限りは、まともな野党は選挙に勝つ・勝てない以前に、参加も出来ない。選挙結果は、人民党120議席。実質衛星党の「フンシンペック」党が、5議席獲得したというか、与えられた。「民主選挙」標榜のため)

与党「人民党」が第一党になるだろうという見通しの中で、2018年総選挙(最大野党を強制解散)に続いて、2023年総選挙でも、政府/与党が、露骨に最大野党が選挙に出る権利を奪って(2023)までの工作をしたのは何故だろうか。どのみち、フン・センは首相を続け、また総選挙後の適当な時期に、長男フン・マネットに首相の座を譲れたであろう。

フン・マネットの政治家としての経験・実績は少なく、最高リーダーとしての力は未知数である。また政治リーダーとして演説が上手くない、力がない、大人しいという評もある。また野党(議会内、実質ゼロとはいえ)の存在以前に、与党の中で、必ずしもフン・セン・ファミリー万歳一色ではない状況もある。(与党として共通の権益・利益は共有しながら、党内反対派はそれなりにいる。たとえば、ソー・ケン内相などの有力者は、国際社会や野党との関係、政権運営に関して異論をもっていると伝えられている。)

そのなかで、フン・センは、長男フン・マネット政権のこれからの5年、10年を守るために、今回単なる勝利ではなく(例えば、100議席対野党25議席レベルの勝利ではなく)、「圧勝」を必要としていたとみられる。また国外国内からある総選挙ボイコット、「投票いくな」運動に対して、今回総選挙と次回(2027年地方選挙)において、投票しなかった者(=直前二回の選挙において不投票の者の立候補は認めない)は、2028年総選挙に立候補出来ないという法改正を行った。その他、様々な法改正、選挙法改正を行ったのは、今回総選挙のみならず、フン・セン・ファミリー長期政権維持のための布石だったともいえる。

カンボジアの一部NGOの人々、在カンボジア日本人などに、1980年代からの第一世代と異なり、米英での留学生活経験のあるフン・マネットの政権でカンボジア政府は大きく変わるかという点を聞いたところ、「これからも院政を敷く、フン・センや長老の影響を短期、中期で脱却するのは難しいだろう」という声が多かった。第一世代(1980年代「ヘン・サムリン政権」世代)が完全に消えていく長期で見れば、変化はあるだろうが。

なお対外関係、国際関係でいうと、2010年を転換点として最大援助国が中国になった辺りから、政治、経済、軍事ふくめ、カンボジアも中国からの大きな影響を受けてきている。都市、場所にもよるが、表面的なカジノなど非常に目立つ中国企業、建物は減ったように見えたが、貿易、経済援助、政策アドバイス、軍事援助、技術援助などふくめ、中国に大きく取り込まれ依存する傾向は続いているようである。他方、1979年のベトナム軍によるポル・ポト政権崩壊以後、特別な関係にあるベトナムとの関係はそれなりに続き、政治・政策批判などを声高に表面化させず、援助も続けてくれている日本との関係も保持している。米国、EUからは人権・民主化問題で批判を受け、カンボジアからは反発する関係である。

2)1979年以後。ポル・ポト政権崩壊後、カンボジア和平、第一回総選挙まで

ポル・ポト政権崩壊(1979年1月)後、ベトナムは、カンプチア人民共和国(1979年~1991年)を樹立、支援した。当時の「カンプチア人民革命党」政府のリーダーは、ヘン・サムリン(国民議会議長)であり、フン・セン(外相・首相)、ティア・バン(国防大臣)、故チア・シム下院議長などである。2020年~22年の顔ぶれはあまり変わらない。1991年10月カンボジアの戦う4派と国連、世界の大国は、ようやくカンボジア包括和平協定(パリ)を実現し、1993年5月、カンボジア国連暫定統治機構(UNTAC)管理下での総選挙を経て、『カンボジア王国』として再生し今日の国の形になった。

3)『カンボジア王国』再生から、1997年クーデター、与党人民党の長引く支配

1997年の、フン・セン第二首相によるラナリット第一首相放逐のクーデターがあり、1998年第二回総選挙の実施が危ぶまれた。当時カンボジア内政に影響力のあった、国連、米欧、日本、豪州などの働きかけで、ラナリット氏への恩赦が出され、1998年総選挙は行われた。しかし、このクーデターと1998年総選挙勝利を契機に、フン・セン首相・人民党は政権支配を強めた。多くの不満や批判も受けつつ、2003年第3回総選挙、2008年第4回総選挙で、フン・セン/人民党は議会多数派を占めた。

4)大きな変化が起きた2013年総選挙と、その後の5年間

2013年第5回総選挙(与党人民党の退潮と野党救国党の台頭)以後、政府・与党は、2018年総選挙を見据え、権威主義的体制の強化を進めた。人権NGOスタッフ逮捕事件(“ADHOC5”の事件)、批判的メディアの廃刊廃局、最大野党救国党党首(ケム・ソカー氏)の逮捕・拘留、そして解党と続き、国内外から「カンボジアの民主主義は死んだ」と評されている。フン・セン首相自身、「パリ和平協定の(人権・民主主義の)精神は亡霊となった」、「欧米、日本等が政治問題などを理由に援助を止めるなら止めればよい。我々には、中国(とその援助)がある」と公言している。

さらに2017年6月に行われた地方選挙(コミューン【行政村】選挙でも野党躍進の傾向が顕著であった。この時点で人民党は、中国ファクター(強大化する中国の援助、投資、貿易に頼る)を以て、政府・与党内での世代交代を図り、政権交代の可能性をつぶす戦略を取り入れ実施していった。

5) 現地で見た、2018年7月29日総選挙の状況

2018年総選挙は、2013年総選挙と2017年地方選挙結果から考えると、政権交代がありうる、あるいは交代はなくとも、与野党拮抗の結果が予想された。しかし、2017年9月3日の救国党党首ケム・ソカー氏逮捕以降の激しい弾圧状況を目の当たりにして、野党政治家や支持者だけでなく、一般有権者の多くも「人権や民主」を語り行動することに大きなためらいを覚えるようになった。一見華やかなプノンペンの賑わいからは想像しにくいが、政治と選挙に関しては、見えにくい恐怖が存在し拡大した。


当時(2018年)、7月24日から8月2日まで、カンボジアに滞在した。従来であれば、COMFREL(カンボジア)自由公正選挙連盟)と共に、選挙監視活動に参加するところである。が、2018年総選挙では、カンボジアの人権、選挙監視系のNGOは、ANFREL(アジア自由公正選挙連盟)など国際団体と共に、「ボイコット」とは言わず、「投票所・開票所での監視活動は行わない」と決めていた。理由は主に三つ。

① 今回の総選挙は、救国党を解党処分し、その55議席を人民党などに配分したことで、本来の複数政党による公正な選挙ではないと判断し、したがって選挙監視の意味はないとしたこと。

② 選挙を認めないとしているCOMFRELなどが、投票・開票所に近づくことで混乱や場合には警察の逮捕などが行われる危険性。

③ 仮に選挙監視活動を行った場合、その後の声明で批判的な意見、評価を公開せざるをえないために、そこで政府、内務省、警察からの干渉をさらに受ける可能性が大きいこと。
それでもカンボジアNGOは、自主的に国道を回り、広い意味での選挙監視、観察を行なおうとしていた。私は、国道3号線(プノンペンから、アンタソム、カンポットなどへ向かう道)を担当することになった。しかし、警察から選挙監視NGOに、投票所・開票所の近くの道に行くなという命令が出て、この活動も挫折した。私自身は、1987年設立の技術学校(職業訓練所)の運転手さん(30年来の同僚・友人)と共に3号線を流して、選挙状況を観察した。宿場町アンタソムでは、やはり35年前の井戸掘り活動の時期に、食事と宿を提供してくらた家族と再会した。

6)予想以上の投票への干渉

選挙には与党・人民党ふくめ20の政党が参加した。しかし人民党は圧倒的に大きく、他は小政党や、新設政党であった。カンボジア農業・農村開発NGOのCEDAC前代表、ヤン・セン・コマ氏が首相候補になったのが、草の根民主党=GDPであった。ほかに旧救国党幹部の二世世代が創った政党、民主党なども出馬した。


日本も似たようなことがあるが、カンボジア農村では、誰が誰に投票したことも分かるということは聞いていた。政府と与党・人民党は、

① まず投票所に必ず行けという強い誘導を行った。この時点で、国外の「救国党」/「救国運動」は、「選挙ボイコット」を唱道していた。そのために投票所に行かない者は、カンボジア国内の非合法野党の一員と見なされる。

② 次に、人民党候補への投票を強制される。秘密投票の自由も事実上なく、誰に投票したか白票で出したかまで分かるとのこと。「村八分」を覚悟しないと、与党以外に投票したり、大きく×を書いたりはできない。

プノンペン市などの都市部では、そんなことはないだろうと思っていたが、間違っていた。投票所とその地元社会は、都市部でも密着している。初めは、知り合いふくめ多くの人が投票所に行かないよと言っていたが、投票日(7月29日)が近づくうちに、強制圧力が高まってきた。国家公務員、市公務員に投票誘導があるのは当然として、民間企業、NGOなどの勤務者も、地元当局の圧力を受けるようになった。7月29日の投票日を過ぎると、投票拒否と言っていた人も、右手人差し指に青インク(複数回投票をさせないための色が落ちないインク)をつけていた。投票所に行かないと、家族・こどもも不利益を受けるということであった。


さすがに、プノンペンでは、投票所までは行くが、白票を投じたり、大きなXを書いたりした人も多かった。選管発表で、投票人数は、689万 投票率は、82%。ただし、無効票の割合は、8.54%、60万票に及んだ。これは通常の選挙の8倍で、異例のことであった。とはいえ、与党・人民党は、議会全125議席を獲得した。議会(当時、123議席)で55議席をもっていた野党救国党を解党してしまったので当然ともいえるが、「圧勝」というべきか、人民党の中からも取りすぎの声が上がるほどであった。

7)総選挙後の動向は

政府発表の選挙結果が落ち着く8月中下旬、収監されていた野党政治家、土地強制収用問題活動家、メディア職員、環境NGO職員などが釈放された。野党党首のケム・ソカー氏も完全な釈放とは言えないが、自宅軟禁に切替えられた。与党・人民党も、下院、上院、地方議会のほぼすべての議席をとれば、余裕も出てくるだろう。


しかし、人権団体ADHOCの事務局長によれば、コンポン・チャム州などメコン川流域で中国の政府系建設企業とカンボジアの電力会社が、ダム予定地において現地住民から土地を取り上げる(強制収用)が続いている。さらに現地住民自身の危険もあるが、被害者からヒアリングを行うNGO職員の正当な任務に対して、州知事や警察、与党系メディアの威嚇が続いているとのことであった。保釈の状態にある一人の職員は再び逮捕される危険を抱えているということであった。

8)カンボジアに関する、日本(政府、民間機関、NGOなど)の動き

選挙前、カンボジア市民フォーラムは、日本政府外務省に対して、

① 本来の複数政党制の選挙ではないこと、

② 政府選挙監視団をだす、ロシア、中国、インドなどの権威主義的政府と同列に並ぶことで、カンボジア国民、そして日本や民主国の人々からの支持を失うことを理由に、選挙監視団を送るべきではないとの要請を行った。外務省内でも議論があったようであるが、最終的に送らない決定をした。

総選挙後、日本政府はカンボジアの野党をふくむ青年政治家をジェネシス・プログラムで、日本に招聘し研修を行っている。 あと今年も9月の国連人権理事会で、カンボジア人権状況に関するとりまとめ役になることが決定している。

現在もカンボジア国内で、人権、土地問題、環境NGOは、法的な措置、警察の取締まり、税務からの圧力など非常に厳しい状況にある。そのような状況の中で、日本では公益財団庭野平和財団やアー ユス仏教国際協力ネットワークなど仏教系諸団体や寺院がこれらカンボジアNGOの活動を支え、あるいは日本への招聘、講演会開催、また政府・外務省との折衝を応援している。

2017年、2018年連続で、上智大学での「カンボジア」国際シンポジウムもその一例である。カンボジア人権問題の象徴であるサライさん(ADHOC代表)とパンニャさん(COMFREL事務局長)が招聘され、基調講演などを行った。昨年1月、カンボジアNGOと国際人権機関によるタイ国内での情報共有・方針決定の会合は町田の寺院が、本年2月のカンボジアNGOバンコク会議は庭野平和財団が支えた。厳しい状況のなか、非常に有意義な支援だと考える。日本の仏教界は、1979年に始まるインドシナ(カンボジア、ラオス、ベトナム)難民救援活動以来、40年にわたって、難民支援と国内復興支援を続けてきた。カンボジアへの関心は、アンコール・ワット遺跡やヒンズー文化、仏教(大乗仏教および上座部仏教)での繋がりも大きかったと思おうが、その後、個人と個人、NGOとNGOの間の友好、交流までに根付いてきている。

今後も、1990年代の、あの平和の回復、複数政党制による民主主義の復活の喜びと盛り上がりがとり戻せるように、日本自体の政治状況も考えあわせ、小さな活動を続けていきたい。

参考資料等:

① アジア経済研究所『IDE スクエア』
安定的な世襲の実現に向けて――2023 年カンボジア総選挙
Toward Stable Hereditary Succession: Cambodia’s 2023 National Assembly Elections
山田 裕史・新谷 春乃


② 日本の新聞社、通信社各論評。
その他: 以下は、2016年~2020年前後のもの。
・フォーラム・出来事年表(1990年代・2010年代以降、特に2013年以降を詳しく)
・総選挙結果の表(獲得議席、獲得得票率) 救国党解党後の政党議席数。
・2018年総選挙立候補政党20政党の表

参考文献・資料:
・参考資料:『カンボジアと日本』今川幸雄著 連合出版 2000年;
・『ポル・ポト』フィリップ・ショート著 白水社 2008年;
・『カンボジア最前線』 熊岡路矢著 岩波書店 1993
・『中国の対外援助』下村恭民、大橋英夫+日本国際問題研究所編(著者:渡辺柴乃、小林誉明、北野尚宏、稲田十一ふくめ8名) 2013 年
・ 論考:『日本と中国の援助から見るカンボジア』阿古智子・地域分析レポート(日本貿易振興機構=ジェトロ) 2018 年; 『新憲法・新国王の下でのタイ政治』浅見靖仁 「外交44号」2017年7‐8月号;
その他、外務省HP、日経、朝日、プノンペン・ポスト、カンボジア・デイリーなど(デジタル・ニュースふくむ)。カンボジア市民フォーラム、ニュース・レター

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