今村昌平Imamura Shohei
映画監督。1951年、松竹大船撮影所に助監督として入社。小津安二郎監督などの助監督を務めたあと、師・川島雄三監督と共に日活に移籍。1965年、今村プロ設立。以後、日本人の生と性を凝視したリアリズムを追求し続けた。1983年「楢山節考」、1997年「うなぎ」でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを2度受賞している。2006年、没。
カンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)受賞トロフィー
(受賞作品 左:『楢山節考』 右:『うなぎ』)
川崎市アートセンターでは、このパルムドール・トロフィーが常設展示されています。
1975年、今村昌平監督は「横浜放送映画専門学院」を開設した。
かつては映画人の育成は撮影所が行っていた。しかし撮影所にもうその余裕はなく、映画を志す若者たちの行き場がなくなっていたのである。
今村が目指したのは映画人による実践的な映画教育だった。「既成のレールを拒否し、曠野に向かう勇気ある若者たちよ、来たれ!」という呼びかけに全国の若者たちが集まった。
その後、横浜から川崎新百合ヶ丘に移り、「日本映画学校」と名を変えても、途切れなく映画界、芸能界に人材を供給してきた。それ以外の卒業生たちも、ここで学んだ映画的思考を武器に、他の分野で活躍している。
映画は伝統芸能ではない。技術革新に対応し社会変化に連動し、時代によってその形を変えていくものだ。白黒からカラー、サイレントからトーキー、フィルムからデジタル──それまでの常識が否定されたとき、映画表現は一気に拡大した。改革を怖れず、新しい技術を駆使し、人種国境文化の壁を軽々と越え、人間の営み、その愚かさと美しさを描いてきた。
社会が変われば映画も変わり、映画に必要とされるものも変化していく。激動の世界に対応できる才能を育てるため、2011年春「日本映画学校」は「日本映画大学」に生まれ変わった。
未来の映画人には、これまで以上に高い技術力と広い教養、世界に通じる見識が求められるだろう。しかし、最も大切なのは自由な精神、未踏の地に踏み込む勇気である。
これからも我々は、「曠野に向かう勇気ある若者たち」の集まる場所であり続けたい。そう願っている。