沿革

日本で唯一の映画の単科大学

日本映画大学の源流は1975年。横浜。
45年以上の映画教育実績で、7,000名ほどの卒業生を映画・映像業界に輩出しました。
1975年

4月

横浜駅前に2年制の各種学校 横浜放送映画専門学院を創始者 今村昌平が開校。

1984年

4月

留学生募集開始。アジアを始め、諸外国から映画を学ぶ学生を受け入れる。

1985年

11月

学校法人神奈川映像学園が設立され、3年制の専門学校とし、名称を「日本映画学校」に改める。神奈川県知事より設置認可。

1986年

4月

川崎市、小田急電鉄、映画会社等の協力により、川崎市の新百合ヶ丘駅前に新校舎が完成。今村昌平が理事長、学校長に就任して日本映画学校 映像科・俳優科を開校。

日本映画学校開校記念、日本映画学校・ATG共同作品「君は裸足の神を見たか」を劇場公開。

1988年

10月

東京、新宿「テアトル新宿」にて、第1回新宿映画祭を主催。以後、第8回まで開催。

1989年

4月

日本映画学校・日本ヘラルド映画共同作品「バナナシュート裁判」を劇場公開。

1992年

4月

石堂淑朗 学校長に就任。

8月

日本映画学校・日本ヘラルド映画共同作品「福本耕平かく走りき」を劇場公開。

1995年

10月

第1回しんゆり映画祭開催。日本映画学校全面協力のもと小田急線新百合ヶ丘駅周辺地域で毎年秋に開催。

1996年

4月

飯利忠男(佐藤忠男)学校長に就任。

1999年

1月

映像機関誌「日本映画学校だ」創刊。

2004年

11月

飯利忠男(佐藤忠男)学校長、理事長に就任。

2007年

10月

佐々木正路(佐々木史朗)理事長に就任。

2010年

10月

文部科学省より日本映画大学設置認可。

2011年

4月

日本映画大学開学。

アルテリッカしんゆり芸術祭2011プレイベントとして、昭和音楽大学共催により日本映画大学開学記念イベント「小沢昭一と映画と音楽と」を主催。

8月

麻生区こども支援室委託事業として、麻生区内の小学生を対象とした「日本映画大学わくわく体験ツアー」を実施。

ポーランド国立ウッチ大学講師による学生ワークショップ「ドキュメンタリー制作プロジェクト」を実施。

12月

ポーランド国立ウッチ大学講師による学生ワークショップ作品「世界の夜明けから夕暮れまで」の日本プレミア特別上映会を日本映画大学新百合ヶ丘キャンパスで開催。

2012年

3月

平成23年度麻生区地域課題対応事業・日本映画大学開学記念企画として「映画がつなぐ被災地とあさお」を主催。

日本映画学校 俳優科を廃止。

4月

アルテリッカしんゆり芸術祭2012プレイベントとして「無声映画と音楽の夕べ」を昭和音楽大学と共催。

毎日新聞社、株式会社チネチッタ、日本映画大学との産学連携事業として「チネチッタ名画座」を実施、継続中。

10月

韓国国立芸術綜合学校と教育、研究等2校間の協力、交流に関する協約を締結。

麻生区内及び隣接する東京都町田市に立地する6つの大学(昭和音楽大学玉川大学田園調布学園大学日本映画大学明治大学和光大学)と川崎市麻生区との間で、「麻生区・6大学 公学協働ネットワーク」に関する協定を締結

2013年

3月

国際交流基金の助成を受け、日本-タイ。『震災と記録・復興への道』を学ぶ学生/青年ワークショッププログラムを実施
日本映画学校閉校

11月

台湾 国立台北芸術大学と学術交流協定を締結

2014年

4月

中国 北京電影学院と学術交流協定を締結

2015年

2月

イオンシネマ新百合ヶ丘で第1回卒業制作上映会を開催

3月

国際交流基金アジアセンターと共催で「…and Action! Asia―映画・映像専攻学生交流プログラム―」を開始

4月

インドネシア ジャカルタ芸術大学(IKJ)と学術交流協定を締結

2017年

3月

昭和音楽大学および昭和音楽大学短期大学部と大学間の交流を推進する連携協定を締結
公益財団法人日本高等教育評価機構による大学機関別認証評価において、大学評価基準に「適合」と認定

4月

今村大介(天願大介) 学長就任
飯利忠男(佐藤忠男) 名誉学長就任

10月

全ロシア映画大学(VGIK)と学術交流協定を締結

2018年

4月

富山省吾 理事長就任

シンボル

1985(昭和60)年新百合ヶ丘に、本学の前身日本映画学校が開校した際に、舞台美術家の朝倉摂氏にデザインしていただいたものです。
四角枠の中に、円と学校名のイニシャルの「n」を配したレイアウトは、荒波の上に昇る太陽にも、また走る人の姿にも見えます。これは、豊かな人格の形成と専門的知識・技術の習得という建学の理念を図案化しているのです。

日本映画大学について