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映画監督

橋本 光二郎

hashimoto kojiro
「俺と一緒に死ぬか?」と問われて
とっさに「死にます」

レンタルビデオ屋には「SFXの作品を観て勉強しよう」と通い始めたんですけど、〈アカデミー賞コーナー〉って棚があって、そっちを観るようになりました。

『雨に唄えば』や『オズの魔法使』とか、ハリウッドのミュージカル映画が好きになって、そこから徐々に人間ドラマに移行していきました。とくにフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』って映画はいまだに好きです。

ある男がミスをしてみんなに迷惑をかけてしまったことから死を選ぼうとする。そこに天使が止めに来て、「おまえがいなかったらこの町がどんなことになってしまうか」と言って、男が存在しない社会を見せる、という映画なんですが……アメリカで公開されたのが1946年。

太平洋戦争が終わって間もない頃です。劇中に〈対日戦争勝利の記念日〉が出てくるくらいで、彼らからすると当時の日本は敵国だった。でもその50年後、かつての敵国の中学生はそれを観て、「明日はがんばろう」って思わされた。それが映画の力だと感じます。

はるか未来の観客をも
励ませるかもしれない

淀川長治さんの「映画100選」という特集上映にもよく行きました。中学、高校生なりに、人間関係で落ち込むことってあるじゃないですか。そんなときに観に行くと、明るい気持ちで映画館を出てこれる。「ああ、俺は映画に救われているんだな」って感じることが多かった。

同じように、もしかしたら僕のつくった映画を100年後にアフリカの青年が観て、「明日からがんばって生きていこう」と思ってもらえるかもしれない。観た人にとって、何か良い変化のきっかけになれば、それが一番の喜びであり、それがこの仕事の醍醐味です。

助監督の先輩を通して
広がっていく仕事の機会

卒業後まもなく、『Lie Lie Lie』の現場へ制作見習いみたいな立場で1ヶ月半ほど入りました。稲垣さんという先生が美術監督で参加するということで紹介してくださったんです。

このときに「実は助監督をやりたいんです」ってふれ回っていたら、セカンド助監督だった武さんが声をかけてきた。「この次、フィリピンでアクション映画の現場に入る。俺と一緒に死ぬか?」。「死にます」って答えました、若気の至りで(笑)。

それが『SCORE2 THE BIG FIGHT』という映画。スタッフが少なかったので、制作部の仕事もやるんですけど、そこで初めてフォース助監督を務めました。それ以降、出会った助監督の方にいろいろな作品へ呼んでもらうようになりました。

企画書を持ち込むのは
自己紹介と同じこと

助監督を始めて15年くらい経ったところで、深夜ドラマ『BUNGO』というシリーズのうちの『冨美子の足』で監督デビューしました。その2年後には、ドラマ『鈴木先生』を演出する3人のうちのひとりを任せてもらうことに。

そのあたりから、映画の現場でチーフ助監督も続けつつ、単発の深夜ドラマに呼んでもらう機会が増えました。並行して、出会ったプロデューサーには自分なりの企画書をつくって見せるようにしていましたが、企画が実現することは、なかなかなかったですね。

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※当時と違い、現在の日本映画大学では、
 コース名称と内容が変わったり、
 開講されていないコースがあります。