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編集

神野 学

kamino manabu
熱気あふれる人たちに囲まれた経験は
自分の一部になっています

それまでの自分は人との間にガードをつくる感じで、人と一緒に何かをすることを好まないタイプだったんです。でも自分をさらけださないとモノづくりは進まないし、人と本音で向き合わないと思いが伝わらない。価値観を揺るがされました。そういう意味でも魅力的な学校だったと思います。

──編集コースに進まれた理由は?

実習で編集を経験して、「こんなに面白いことがあるんだ」と感じました。時間をかけて撮ったフィルムに対して、自分の意思で編集点を決めていく。当時は物理的にフィルムを切っていたのですが、作品を構成していくことの重みと、フィルムの手触りが楽しくてしょうがなかった。
最初は「映画に関わるなら監督」という考えでしたが、講師の方の「編集も演出の一部。編集は作品づくりの肝だ」という言葉で進路を定めました。

芝居を生かすも殺すも
編集ひとつですべて決まる

──そのときには編集で食べていこうと思われていた?

そうだったと思います。2年生のときの講師が岡安さんという伝説的な技師の方だったんです。岡安さんは「作品の良し悪しが決まるのも、この女優の芝居を生かすも殺すも、オレのデルマ1本だ」と。
フィルムにデルマで印を打つことを「それぐらい編集は重いんだ」という意味でおっしゃっていたと思うのですが、いまだにその言葉を肝に命じて編集しています。
ある種のロマンかもしれないですけど、それぐらいの強い思いを持って語れるようになりたいと今でも思っています。そういう言葉のひとつひとつに刺激を受けていました。

──授業に出ず、パチンコ屋にしか行ってなかった方もいたと聞きましたが、学校にはちゃんと通っていましたか?

ラッシュの順番待ちのときはパチンコ屋に行っていました(笑)けど、授業には真面目に出ていました。
あと、当時は土曜日に上映会があって、これにも毎週行っていました。ロマン・ポランスキーのような、地方にいたら名前も聞かないような監督の映画が観られたんです。今のようにWebで何でも調べられて、観られるような環境ではなかったので非常に貴重な時間でした。
日々のいろいろな刷り込みと、熱気あふれる人たちに囲まれたことは、自分の一部になっているところがあると思います。

プロに入ったきっかけは
卒制撮影中の一本の電話

──どのようにしてプロの世界へ?

3年のとき、卒制を横浜でロケしていたら、岡安さんから「いまから掛須のところへ行け」という連絡が入ったんです。ロケほったらかしで駆けつけると「働く気はあるか?」「ああ、はい」「じゃあ、飲みに行くぞ」(笑)。その店で「じゃあ、4月からな」と言われて、「はい」と。

──体育会系ですね。

岡安さんが掛須さんのことをよく話されていたのでこの方が「あの掛須さんか」と。映画業界のことを熱く話されていた姿は今もよく覚えています。
卒業後はジェイ・フィルムで働き始めました。当時はノンリニア編集が始まったばかりでしたが、学校でAvidを触っていたのである程度は扱うことができました。
でも、やっぱりフィルムの手触りが忘れられなくて、フィルムの編集をされていた辺見さんの助手につかせてもらいました。そこで3年弱アニメの編集助手として勉強させてもらいながら、実写作品のお手伝いもさせてもらいました。

ソニーPCLで
アニメーションの編集を

──ソニーPCLへ行かれたのは?

だんだん、環境を変えてみたいという気持ちが膨らんできたんです。フィルム現像やポストプロダクションとして歴史があるソニーPCLだったら、自分にやれることがあるかもしれないと思って入社しました。
あるとき、「アニメ作品の編集マンを探している」という話があるがやれないかと言われたことがありました。自分がやってきたことを生かせるのではと思い、「ぜひやりたい」と手を挙げたんです。それがufotableさんの劇場第1作目の『空の境界』です。

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※当時と違い、現在の日本映画大学では、
 コース名称と内容が変わったり、
 開講されていないコースがあります。