──(笑)。授業には真面目に通っていたんですか?
そんなに真面目な口ではなかったです。2年生になって所属したゼミを抜け出して、隣りの榎戸先生のゼミに出入りしていました。相米慎二さんの作品が好きで、榎戸さんが相米さんの助監督をやっていたからなんですけど。
「授業を受けるくらいだったら、ちゃんと映画を観ろ」っておっしゃる方で、実際、学校をサボってフィルムセンターに通ったりして映画漬けになりました。それまでの学生ノリから一転、映画に向き合いだしたのがその頃です。
目の前のことをやっているうちに
助監督を続けることに
──学生時代から助監督として現場に入られていたそうですね。
がんばって良い成績をとるよりも現場に行った方がいいのかなと3年生になって考えたんです。
──現場にはどうやって入ったんでしょう。
「Vシネの助監督募集」みたいな掲示を学校で見つけました。行ってみたらアダルトビデオだったんですけど(笑)。
でもその現場はおもしろかった。清水大敬さんという監督は、ただのアダルトビデオと思われたくないというポリシーがあって。『キルビル』のパロディで、女の人が百人の男を倒すとか、ドラマの要素も多くて、「これは映画なんだ!」という熱意にあふれる方でした。
──そこから助監督時代が続くのですね。
初めて映画の助監督を経験したのは、卒業して1年後くらい、『フライ、ダディ、フライ』という作品です。
──ということは、映画監督の道を目指すことは在学中に決めていたんですね。
最初は美術にも興味があったんです。映画の画的な要素に惹かれていたし、種田さんに憧れもありましたし。卒業制作も、監督ではなく美術を担当しました。
でも現場で見ていると、美術部って大工のような作業とセットじゃないですか。そんなに器用ではなかったので、わりと早々にあきらめました(笑)。
この業界で生きるにはどうしよう──目の前のことをやっているだけなんですけど、気づいたら助監督をやっていた、という感じです。
映画の現場からの誘いを絶って
映像ディレクターの仕事を
──転機になったのは?
「なんでもいいから監督業をやろう」と思って、知り合いのインディーズバンドであるサカナクションのMVを撮ろうと考えました。ところがそのタイミングで、阪本順治監督の『闇の子どもたち』という、タイでロケをする映画のサード助監督のお誘いがかかった。卒業して4、5年、25歳の頃です。
阪本監督作品も好きだったので迷ったあげく、MVを選びました。それ以降、お手伝いは別として、助監督はやっていません。
──大きな選択だったんですね。
助監督と監督って、別の仕事だな、脳みその使い方が違うな、と思ったことが大きいかもしれません。このままでは自分が望んだ監督像になれなさそうだ、別ルートをたどった方がスムーズなんじゃないか、と。そこから、MVを撮ったり企業ビデオをつくったり、作品も少しずつ規模が大きくなっていった感じです。
ただ、レールを1回外れてしまった感覚はつきまといました。助監督としてのし上がっていく友人もいたし、関係が一度切れてしまった映画界は華やかに映りました。それでも助監督時代より〝映像をつくる〟という意味では充実していたと思います。
──その後、AOI Pro.に所属されます。
30歳くらいです。映像ディレクターとして一人前になりたい、ちゃんと評価されるようになりたい。そのための近道だと思って。実際、フリーのときよりもバッターボックスに立つ回数が増えたというメリットがありました。