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監督

鈴木 大介

suzuki daisuke
水道をつくることは
俺たちにできない

──2年目にドキュメンタリーコースに進まれます。

入学してからは特撮どうこうよりも、面白い映画をつくるための研鑽を積まなければという意識になって。「もっと人間のことを勉強しなければ」と考えた結果です。

──「めちゃくちゃ」という発言がありましたが、それは?

いろいろありますけど、学校の実習を放り出して、NGOの活動でクルド難民を支援するためにイランに行ったり……。

──ずいぶん飛躍されましたね。

友人と言い争いをしたり、学校でいろいろあって、日本を離れたくなったんでしょうね。そのNGO団体はお金がなかったので、インフラを整備することはできなかった。そのかわり、スクリーンと液晶プロジェクターを難民キャンプに持ち込む。
僕は絵を描いたり編集をしたりして、「手をこまめに洗いましょう」みたいな啓蒙映像をつくっていました。クルド難民キャンプを訪れてはその映像と一緒に『ウルトラマン』や『忍者ハットリくん』を上映したりもする。
キャンプを回って映画を上映することは難民の精神衛生上、意義深いと感じる一方、「でも俺たち、水道をつくることはできない」という引け目もありました。

──どのくらい行っていたんですか。

3ヶ月目に同級生からイランまで電話があって、「卒業制作があるぞ」と言うので帰ってきました。寺田靖範さんという、いまもテレビドキュメンタリーを撮っている同期が監督を務めた『妻はフィリピーナ』という作品です。題材は、フィリピン人と結婚した寺田さんご自身。
フィリピンロケもやることになり、「海外経験があるから」と声がかかったんです。監督、撮影、録音という最少チームで行くことになったのですが、僕は録音。多少は心得もあったので、音楽も担当しました。
完成したあと「長編にしよう」となって、追加撮影をすることになり、卒業後も1年以上、制作につき合ったんじゃないかな。

──その間、生活費はどうしていたんですか?

バイトをして食いつないでいました。映画は新宿や中野で上映をしたところ、1万人くらいに観てもらえて、「たけしの映画大賞」も獲りました。

──東スポの(笑)?

はい(笑)。

特撮をやりたいと
ずっと思っていたのかも

──それにしても、中学生で早々に「映像を仕事に」と志し、順調に歩み始めたと思いきや……。

計画性がない(笑)。次は音楽の仕事を始めるんです。
音楽は在学中からかじっていて、2年のとき、一個上の木村啓作さんの卒業制作でも音楽を担当していました。その卒業制作を観ていた先輩から声がかかって、Vシネで何本か音楽をつくらせてもらって、食いつなぎました。

──多才ですね。

器用貧乏ってこういうことかと後々気づくんですが(笑)。
ただ、音楽の仕事は3年くらいしかもたなかった。基礎を勉強していたわけでもないから、どんどん枯渇していく。もうやめようと思っていたときに、今度はCGと出会うんです。

──現在に直結するジャンルですね。

パソコンが普及していなかった時代なのに、実家に帰るとパソコンが置いてある。妹が友人につくってもらったらしくて、「お兄ちゃんが好きそうなソフトが入っているよ」と。
それは簡易版のCGソフトだったんですが、もう面白くて。3日間ずっと触っていました。宇宙船を組み立てて、軌道を打ち込んで、カメラ位置を決めて……。いったん離れた特撮ですが、ずっとやりたかったんでしょうね。
そのとき「CGが仕事にならないかな」と初めて考えた。気づけば30近くになっていました。

頼まれもしないのに
あれこれとつくっていました

幸運なことに、妹がゲームをつくっている会社を紹介してくれて。そのパソコンでつくったムービーをフロッピーディスクに圧縮してデモリールとして持って行ったら、一発で採用いただきました。
当初はパソコンのスイッチの切り方もわからないようなレベルでしたけど、必死になってソフトの使い方を勉強をしました。

──そこで基礎を叩き込んだんですね。

その後、GONZOで働いていた映画学校時代の同級生からお誘いがあって、憧れていた会社でもあったので職場を移りました。そこでもりたけし監督の『ヴァンドレッド』というロボットアニメに携わらせていただきました。
その後また別会社で増田龍治監督の『ガラクタ通りのステイン』という短編シリーズに携わって、これが「CGIディレクター・キャラクターモデリング」という肩書きが付いた初めての作品。
その後、GONZOで知り合った松浦裕暁に「会社をつくるんだけど来ないか」と声をかけられたんです。

──サンジゲンが創立された2006年ですね。

当時はCGアニメーションでキャラをつくることがまだ珍しかった。「麻雀牌をCGでつくってくれ」という発注があると「牌だけじゃなく、手もCGでつくりますよ」「手だけじゃなくて、全身もやります」って、頼まれてもいないのにつくったりしていました。

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※当時と違い、現在の日本映画大学では、
 コース名称と内容が変わったり、
 開講されていないコースがあります。