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編集

瀧田 隆一

takita ryuichi
一番つらかったのは、
編集作業を見ているだけの3日間です。

──印象に残っている授業はありますか?

人間研究です。これは対象をしぼって取材をしていくドキュメンタリー制作で、1年目に取り組んだ実習。僕らのグループはある組織のいじめ自殺事件を採り上げて、被害者と加害者、全体像を掘り下げることになりました。
亡くなった方は僕と同い歳でしたし、思うところがいろいろありました。お会いした遺族の方とはいまも年賀状のやり取りがあるんです。
事件を掘り下げれば掘り下げるほど、遺族には知られたくなかっただろう本人のプライベートも見えてくる。〝他人の家庭に土足で上がる〟ではないですけど、それに近い行為をやっているわけです。どこまでやるべきなのか、考えさせられました。

──作品は仕上がったんですか?

はい。ただ僕らなりの結論がまとまらず、作品のエンディングは本人が自殺を遂げた場所で、みんなそれぞれが感じたことを語るという形になりました。
みんながみんな、こういう重いテーマではないんですよ。なかには、「取材に遅刻して作品になりませんでした。どうしよう」って発表するグループもいたりした。

──形にならない発表も含めて、〝人間研究〟だったんですかね。

「そんな中途半端なもので終わらせて…….」と僕は怒っていたんですが、講師の山田さん橋本さんは、そういう発表も面白がっていたみたいです。いま思うとそういう人間模様も「人間研究」だったのかなって思います。

──実習の体験はいまの仕事に結びついていますか?

あの実習で学生同士、腹の底をさらし合ったことは大きかったと思います。他人とあれほど熱く、真剣に語ることなんて初めてでしたから。

──学生時代に得た一番大きなものはそこですか。

大きいのは「映画はひとりではつくれない」という実感です。集団作業を通して自分が何に適しているのか、自分以外の発想で映画がどれだけふくらむかを知りました。自分とまったく逆の考えの人がいる、ではどうやってつくっていくのか……。

連続ドラマデビューは
ムチャぶりのおかげ

──どのように編集の道を歩み始めたのでしょう。

卒業が迫ってきた頃、ポスプロ会社で事務をやっている知人に編集会社のリストをつくってもらいました。ほとんどが広告のポスプロだったなか、映画も手がけているアクティブシネクラブがあったんです。
入った当初は広告編集のアシスタント。といっても、3日間、編集作業をその隣りで、ひたすら見ているだけ。みんな手の動きが速いから、なにをやっているのかもわからない。振り返るとあのときが一番つらかった(笑)。

──その後は仕事を任されるように?

アビッドしか使えなかったんですが、入社後にアフターエフェクトを無理やり憶えたことで、早いうちにいろんな仕事を任されるようになりました。
2、3年目の頃、森淳一監督が会社に来た際、社長と「CG合成などもやってくれる編集がいたら、イメージが伝わりやすくていいんだけどな」と話していて。そのとき社長が「瀧田はできますよ」と。まぁ、ムチャぶりですよね(笑)。おかげでその後、森監督の配信ドラマを担当することになったんです。
森監督を通して守屋プロデューサーとも知り合いました。守屋Pが手がける『鈴木先生』を会社が請け負うことになり、「やりたいです!」と手を挙げてテレビドラマデビューを飾りました。

お手伝いから十数年を経て
『THE FIRST SLAM DUNK』へ

──そこから『THE FIRST SLAM DUNK』まで、どんな道のりを経たのでしょう。

「井上雄彦先生にコミックの『SLAM DUNK』を映画化したいとお願いをする」映像制作をうちの会社で一緒に作成することになったんです。原作者に向けたビデオレターですね。現場も手伝った流れで「瀧田、編集もやって」と言われて関わったのが始まりです。
入社2年目くらいだから、いまから十何年前。まだ映画の編集を担当したことがない頃の話です。

──ずいぶん以前から関わっていたんですね。

企画はそのとき動き出さなかったんですが、その後もムービーを定期的につくっていくなかで、僕も作業にちょこちょこ呼ばれていました。

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