──卒業制作では監督を務めたのですが?
ドキュメンタリーの実習では監督を務めましたが、卒業制作ではやっていません。監督の役割はだいたい理解したので、プロデューサーをやっておきたかったんです。ひとつの役職だけでなく、あれもこれも経験したかった。
──充実した学生時代だったんですね。
とてもよい3年間でした。一番大きいのは、地元を離れられたことでしょうね。
地元って怖いもので、そのなかで生活していこうと思えばできてしまう。その沼から抜け出せた。誰ひとり私のことを知らないというあの解放感──。
がんばればがんばるほど
演出が遠のいていく
──アニメ業界へはどんな道のりを?
学生時代、アニメのことはすっかり忘れていて、「映像についてせっかくいろいろ経験してきたんだからアニメもやっておこう」と考えました。
在学中に面接を受けて、いったんは手塚プロで働くことになったのですが、年明けに手塚治虫さんが亡くなられてしまい、「手塚さんがいないのであれば」ということで辞退しました。
教務課で「実写の編集をやっているけれど、アニメーションも手がけている掛須さんに相談してみれば」と聞いたので訪ねてみると、いきなり「お前はJ.C.な」。
どういうことかと言うと、掛須さんにふたつのアニメ会社、AICとJ.C.から「誰かいない?」という声がかかっていたらしい。そして先に相談に来た別の人をAICに紹介していたわけです。私はJ.C.がなんなのかもわからぬまま、就職することになりました。
一応試験はありましたが、面接が終わった瞬間、J.C.の専務に不動産屋へ連れていかれて、部屋の契約をさせられた(笑)。
──そのときは「ずっとアニメをやるわけではない」と考えていたんですか?
そうです。実際、私は一度業界を去っているんです。
ともかく制作としてがんばらないと会社が回らない。すると制作として出世してしまうので、どんどん演出から離れていく。J.C.には感謝をしているのですが、ジレンマを感じて退職しました。
その後は知り合いづてでAV紹介雑誌に載せるビデオ論評を書いたりして、お金が尽きたらAV業界に行こうかとも考えていました。
若くしてデビューする監督は
90年代、珍しい存在ではなかった
数ヶ月して、サンライズ(現バンダイナムコフィルムワークス)の内田健二さんというプロデューサーから「新規の制作ラインでスタッフが足りない」と声がかかった。「演出をやりたい」と伝えたら、「確約はできないけれど、演出昇格試験を受けさせてやることはできる」と。それが業界に戻ってくるきっかけです。
──自信があるからこその行動ですね。
「私にやらせてもらえればもっと面白くつくるのに」という気持ちは常にありました。まぁ、20代で傲慢な時代ですから(笑)。
絵がうまいだけのアニメーターが監督をやって、アニメ誌でちやほやされている。それが同年配だったりすると、もう腹が立って腹が立って、雑誌を破り捨てたこともあります(笑)。同じスタートラインにすら立てていない。「なんでこちらにチャンスが来ないの」という憤りがありました。
──試験はパスされたんですね。
はい。入社1年後、1991年頃ですね。
──『ONE PIECE 倒せ!海賊ギャンザック』で1998年に監督デビューを果たします。トントン拍子ですね。
もっと早くデビューした人はいっぱいいました。当時はOVAもありましたし、アニメ業界が一気にふくらんだ時期でもあったので、若手にもチャンスが多く与えられたんです。
それに90年代前半は海外との合作作品が多くて、日本のスタッフがズボッと抜けた時期でもある。だから下の世代をガンガン起用していった。乱暴なくらいでしたね。
──監督の依頼も「やっと来たか」という感じだったと?
『ONE PIECE~』を請ける前に、テレビシリーズで監督デビューすることも決まっていましたし(『無限のリヴァイアス』)、「当然だよね」くらいの感覚でした。
絵が描けないことに対する
怖れはまったくなかった
──いろんな技術を学ばれてきた谷口さんですが、絵の修練はされなかったんですか? コンテを描く必要はありますよね?
コンテの練習くらいはしましたが、絵についてはスタッフ間の意思疎通に齟齬がない程度に描ければそれでいいんです。
──アニメーター出身の監督が主流だったなか、引け目はなかったですか?
高畑勲さんは絵を描かない方だった。かつて「『ホルス』の映像表現」という高畑さんの本を読んだのですが、それによるとアニメは理屈の組み合わせだということがわかる。自分は見せ方の知識が経験値的に不足しているけれど、そこをなんとかすればやれるはずだと思っていました。