FULLSIZE
プロデューサー

山本 晃久

yamamoto teruhisa
制作部から下積みを
やり直すしかない。

──学生時代に刺激を受けたことは?

人生で一番楽しい学校生活でしたね。差はあれど、みんな映画が好きなんです。高校では部活動をしていなかったし、映画をつくったこともなかったので、単純に集団のなかに入って作業できたことが面白かった。

──同期とは映画の話を?

瀬古浩司くんFULLSIZEでのインタビューは当時からクリエイター濃度が高くて、暇さえあれば安い酒を家で飲みながら、映画や小説、お互いに目指すものは何かということにについて語りあっていました。楽しい時間でしたね。

──充実した3年間だったんですね。

そうだと思います。ただ、学費だったり、お金の心配はずっとしていましたけどね(笑)。

──バイトは?

映画を無料で観られるから、ビデオレンタル屋に入ろうと思ってTSUTAYAなどを片っ端から受けたんですけど、全部落ちた(笑)。
そこでピザ屋の配達のバイトをしばらくしていました。あるとき、家の近くのビデオレンタル屋がバイトを募集しているのを知って面接をしたら、やっと受かったんです。

スタジオ時代に培った
人脈と知識を生かす道

──東宝映像美術東宝スタジオサービスと、スタジオに就職された理由は?

撮影所にいれば自分が書いた脚本を知り合った監督やプロデューサーに読んでもらえるかもという発想がありました。
ところが東宝スタジオの未曾有の大改造計画が始まったばかりだったので、ひじょうに忙しくなってしまった。在籍した7年間で、自主映画を2本しかつくれなかったんです。

──お仕事をされながら自主映画をプロデュース?

脚本・監督・編集です。黒澤明ショートフィルム・コンペティションで入選しているんです(笑)。ただ生活があるので、スタジオの仕事をやめる決心はつかなかった。
でも30歳になったときに長男が生まれて、このままではやばいなと思ったんです。映画をつくりたいから東京に出てきたのに、ほぼつくれていない。制作部から下積みをやり直すしかないと考えました。
現場は売り手市場で、がんばってさえいれば仕事が途切れないことはわかっていたから、何とか食っていけるだろうと。
そこでスタジオ時代にお付き合いのあったふたつの会社の部長さんに相談して、制作部として現場に入ることになったんです。でも両方とも作品の谷間で、3ヶ月後からしか働けないという。そのとき、C&Iエンタテインメントのプロデューサーさんから、以前一緒にやった仕事の恩を返したいという連絡があったんです。

──どういう恩だったのですか?

予算があまりない作品で、スタジオ使用料の値引き交渉を一緒にやったことがあったんです。話の流れで「これからどうするの?」と聞かれて、「3ヶ月空いてるんです」と答えたら、「いま困っているからウチに来てよ」ということで、DVD、ブルーレイをつくる進行をやることになりました。
その仕事がうまくいったので、そのままC&Iに居てくれと言われたんです。
学生時代に映画づくりは集団作業で、とどのつまり「人」が大事だと感じていました。スタジオ時代に培った人脈と知識は、プロデューサーだったら生かせるかもしれないと思ったんです。

雑用をこなしながら
企画を練り上げる日々

僕の師匠にあたる久保田修さんはめちゃめちゃ怖い(笑)。でも、言っていることがいちいち正しい。社員プロデューサーさんたちが言われていることを聞いていて、自分が言われたら成長できるなと勝手に思いました。
久保田さんに「できればプロデューサーをやりたい」と伝えたら、「大変だよ」という返事。そもそもプロデューサーは資質のあるなしがどうしてもあって、合わない人は疲弊していくだけ。でも僕にはこの道しかないと思っていたから、2012年の正月明けに、溜めていたもの、新しく考えたもの、10本ぐらい企画を持っていきました。
そのなかから久保田さんが「これはいけるかも」と2本ほど拾い上げてくれたんです。出資してくれる会社を探しながら、「ここが詰めが甘いから書き直せ」という指導が始まりました。

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 開講されていないコースがあります。