──『スピード』から始まったということは、好みとしては「どエンタメ」だったんですね。
どエンタメです。父親と一緒にレンタルビデオショップで借りてきて観るのは、スティーブン・セガールやシルヴェスター・スタローン、ジャッキー・チェンとか。
日本映画も観ていました。黒澤明監督や、広島出身なので深作(欣二)さんの『仁義なき戦い』シリーズはもちろん、『極道の妻たち』シリーズ(五社英雄監督)も好きです。やっぱりエンタメ寄りですけど。
なので、日本映画学校(現・日本映画大学)は願書を出してから、毛色がそっち寄りじゃなかったことを知って「どうしよう?」と(笑)。
──創始者である今村昌平さんの映画はご覧になっていましたか?
入学の前に「これは観ておかなければいけない」と思って観ました(笑)。
やりきることの大切さを知ったのが
いまも財産になっている
──女優、映画監督ではなく、なぜ音響だったんですか?
テレビでたまたま観たハリウッド映画のドキュメンタリー番組に馬のフォーリーをやっている様子が出てきたんです。「何だこれは?」となりました。
映画は最先端技術で、コンピューターを使ったり、もっと専門的な知識が必要だと思っていたんです。馬が走る映像を観ながら音をつけている姿を目にして「なんてアナログなんだろう」と。「人の手でやってるんだ」「これやってみたい」って思いました。「ああいうことだったら自分もできるかも」って(笑)。
──日本映画学校に入学して、まわりの学生とは仲良くなれましたか?
知らなかった映画を同じゼミの人に教えてもらったり、薦められた映画を観て感想を伝えるなかで友達ができていきました。面白い人がたくさんいました。1年生のときに出会った親友は同じような業界で働いてますけど、いまもずっと関係が続いています。
──学校には真面目に通われていた?
真面目に通っていました。もともとそういうタイプなので。
──当時すでに音響志望だったんですね。
「音に行きたい」ということは決めていました。撮影、照明、編集は全然興味なかった(笑)。映画をつくる要素のひとつひとつとしてはすごく好きですけど。だから音響以外の授業を聞いていても「ぽかーん」みたいなことはいっぱいありました。
──印象に残っている授業は。
実習ですね。面白かったし、ひとつの作品をやりきることの大切さを知りました。脚本の実習でいえば、「どんなダメなものでも書き上げる」とか。とても苦しいけど、それを学生時代に経験できたことがいま財産になっていると感じています。
3年間は辞めないことを誓って
アルカブースに入社
──卒業後の進路は?
3年生のときに、録音の講師の中山先生に、アルカブースに入りたいと相談したんです。アルカブースは私の師匠である柴崎憲治さんの会社ですけど、業界ではとてつもなく厳しいことで有名で、その噂は学生の私でも知っていました。
中山先生から「絶対に3年間は辞めないと約束できるのだったら紹介する」と言われて、私は「絶対3年間辞めません」と。それで会社へ面接行ったんです。
ふつうのマンションの地下にスタジオがあって、鉄の扉のところには「網走刑務所」と書かれた木の札がかかっていました。
──本当ですか(笑)?
本当なんです(笑)。ドアを開けたら、髭が伸びきったジャージの、目がうつろな人たちがいて、「先生と一緒に面接に来ました」と伝えたら、「はい……。ここじゃないです、上の事務所です……」みたいな返答で。事務所に行ったら柴崎さんがいたんですが、風貌が……。
──ふだんサングラスなんですよね。
そうです(笑)。怖かったです。会ってすぐ、「女には無理だ」みたいなことを言われました。でもここで食いつかなかったらどこにも行くところがないと思って、「絶対やりたいんです」と。
柴崎さんは去るものはまったく追わないんですけど、来るものも拒まない。「熱意は分かった」とおっしゃっていただいて、その日は帰りました。でもそこから何の音沙汰もなかったので、柴崎さんに電話をかけたんです、「面接した井上ですけど、見学だけでもいいので行ってはいけませんか?」と。でも返答は「いや、いまは……」みたいな感じ。もう忙しくて、こんな得体の知れない女の相手なんかしている時間はないわけです。