あと先輩が制作会社をつくったので、フリーのディレクターとして手伝うことになったんです。バラエティ番組のコーナーやインフォマーシャルなど、CMに比べるとバジェットが低い映像作品です。規模が小さいので、全部ひとりでつくる、という感じでした。
──フリーランス時代、どれくらい自主映画を?
3、4本ぐらいです。
──仲間はどうやって募ったんですか。
以前『ブリキの鼓動』を出品したインディーズムービー・フェスティバルなどで知り合った日芸や大阪芸大の人たちへ声をかけました。みんなまだ20代。要職に就いているわけでもなく、お互いに協力し合って自主映画を撮っていました。
──どんな作品を?
漫画家が主人公で、四畳半で同棲している相手と一緒に売れない漫画を描いていて……って、これ林静一とまんま同じですね(笑)。あとは、アイドル歌手が地方の旅館に引きこもって、そこで寝泊まりしている奇人たちにカルチャーショックを受けながらも心を取り戻していくという話です。
──当時の心理状態が反映されているんですかね。若干閉塞感があるような……。
かもしれないです(笑)。ATGの影響もあるのかもしれません。「暗さに救われた」って言いましたけど、やっていて暗い感じが自分でも嫌になっていました。
フリーランスの仕事も先行きが見えないし、生活的にも追い詰められて、「このままインフォマーシャルを撮り続けるの?」と悩んでいました。
そんなとき、ふと見た転職サイトで、制作進行を募集しているアニメーション制作会社をふたつ見つけました。その段階で僕は28歳。その歳で制作進行を始めるってけっこう遅い。片方は「25歳まで」と明記されていたからダメでしたけど、もうひとつの東映アニメーションに応募したところ、応じてくれたんです。
ただ、こちらはアニメの制作進行だと思っていたら、触ったこともないCGの進行でした。もっとも、アニメの制作だってどんなことをするか知っているわけでもないのですが(笑)。「CGのことは全然知らないです」と話しましたが、面接が進んで、最終的には当時の部長が出てきました。そして「会社の歯車のような扱いになってしまっても大丈夫ですか」と。
──そんなことを(笑)!?
「大丈夫です」としか返しようがない(笑)。ここまで来て「なりません」とは言えないじゃないですか。若い人からすると「歯車になる」って……。
──『モダン・タイムズ』みたいな(笑)。
そうですね(笑)、「一部品になって、息を殺して生きていく」みたいな印象がありますよね。いま思うと「ひとつの作品のためにチームへ身を捧げられるか」という問いかけだったのではと感じるんですが。
人と違うやり方をしないと
生き残っていけないんじゃないか
──28歳にして新しい世界が開けましたか?
あまり変わらなかったですが(笑)、「ここで働く」という基盤ができたことはよかったと思います。
CG部といってもアニメではなく、実写作品のCGをつくっていていました。『デビルマン』とかがつくられていた時期で、僕が最初に関わったのは『最終兵器彼女』。初日に「明日ロケだから山梨にCGスタッフを連れてきてくれ」と言われて、社用車を運転して行ったら遅刻して怒られて……というスタートでした(笑)。
──実写なので経験を活かせたのでは?
システムもつくり方も自主映画とは違うのでわからないことだらけ。規模もスタッフの雰囲気も全然違う。
そのロケから始まって、昼夜を問わずずっと作業しているCG部にマネージャーのように付き添うので最初の1年は全然帰れませんでした。半年くらいは会社に住んでいた感じで、「もう無理だな」と挫折しそうになっていました。
──その危機はどのように脱したんですか。
制作会社に入った以上は演出をやりたいという気持ちはあったんです。進行をやりながら、知り合ったスタッフに演出になるにはどうしたらいいかという相談はしていました。最終的にはCG部の課長が演出助手への異動を取り計らってくれて、そこからようやくアニメのキャリアが始まりました。
31歳から演出助手をやる人ってたぶんいないと思います。僕はすべてが遅い(笑)。
──ともあれCG部から制作部に異動されたんですね。
そんな年齢ですし、異色の存在だった気がします。テレビシリーズ以外に、イベントやCMの仕事をいっぱい担当しました。手が足りないときは劇場映画の手伝いも。
あと、『空中ブランコ』という実験性が高いアニメにも関わりました。これは実写とアニメのハイブリッドで、いまでこそ珍しくないけれど、当時はつくり方がまだつかめておらず、「どうやってつくる?」というところから試行錯誤しながらの制作でした。
こんなふうに、みなさんが知っているテレビシリーズだけではなく、単発の仕事が多かった。イベントやゲーム、CMなど、目的が違うものを手がけるのですが、どの作品でも自分のフィルターを通したら何ができるのかを考えました。人と違うやり方をしないと生き残っていけないという意識もありました。
ほかのアニメ作品より
際立たせるにはどうしたらいいか
──その頃のモチベーションは?
演出になるという目標です。ふつう演出助手を3年くらい務めると演出になる。僕は5年なので、かなり遅い(笑)。あきらめかけたところでようやく声がかかったので感慨深かったです。
ただ、僕はもともとアニメをあまり観ていなかったのに「みんなが求めるアニメをつくらなきゃ」という強迫観念があって、窮屈さを覚えていました。「向いていないのかも」と思ったこともありましたね。