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脚本家

港 岳彦

minato takehiko
東京カルチャーの波には
乗ることができなかった

先生に「演劇部をやりたい。演劇が大好きだから」と嘘を交えてお願いしたら、「復活させてもいいけど、地元の高校が参加する演劇祭でお前が作・演出をやれよ」。「やります、できますよ」と即答して、その足で本屋に向かいました。

──資料探しに。

中学の時にシェークスピアやチェーホフを読んでいたけど、内容が全然頭に入ってこなかった。改めて本屋さんの書棚をもう一度探すと、薄い戯曲があって、わかりやすい文章で書いてある。それが「ガラスの動物園」でした。
面倒くさいお母ちゃん、障害を持ったお姉ちゃんと一緒に暮らしている弟が、劇作家を目指して家を出ていく話。感動したし、他人事とも思えなかった。つたないながらも「ここが伏線になっている」「ここで回収するんだ」という分析もして、初めて戯曲を書き上げました。

──どんな戯曲だったんですか?

主人公がバイクで事故って死ぬ、けれど幽霊になって友だちや家族と会話する……みたいな話で、戯曲と呼べるほどのものでもないです。
で、部室に行ったらタバコ吸っている1年生がたむろしていた。「なんスか?」って感じの彼らに「ちょっと演劇やろう」と声をかけて活動開始。でも僕は柔道部からの勧誘から逃げるためにブラスバンド部にも所属していたから、そっちの練習もあって、まあ、おざなりでしたね。
さらに、演劇祭が迫るなか、同じ日に吉本興業が宮崎市内でお笑いコンテストを開くと聞いて、「それ、出たいな」と。当日は「きみたち、やっといて」と言って、僕はお笑いコンテストに行きました。

──そんな無責任な……。

無責任にもほどがありますよね(笑)。結局3、4本戯曲は書きましたが、上演に至ったのはその1本と、県大会の予選用に書いた「ワイルド・アット・ハート」という演目だけ。デイヴィッド・リンチの映画のタイトルまんまです。

──それはどういう話?

当時はバブルが弾けた直後。世のなかがまだ浮かれているなか、進学校を横目に「こいつら、大学に行って楽しくやるんだろうな。俺たちは、そうはなれないんだろうな」と鬱積している工業高校の高校生。そんな男の子と進学校の女の子のカップルの物語です。決勝には進めなかったものの、奨励賞はいただけて……という感じでした。

──吉本のコンテストはどうなったんですか?

ピンで出て行って、「布団がフットンだ」的なギャグを10個ぐらい連発して自分でゲラゲラ笑う、というネタを披露したんですが……。

──……痛い話ですね(笑)。

ひどい空気になりました(笑)。

方言厳守が招いた
コミュニケーション不全

──その後、日本映画学校に無事進学されました。

東京では、フリッパーズギターとか渋谷系が流行り始めていた。みんなは嬉々としてシネマライズへジャームッシュやカラックスを観に行ったりして、「東京のカルチャーを楽しむぞ」というふうでした。そのテンションに乗れない自分は「やっぱり田舎者だな」といじけていた。
みんなで一緒に作品をつくったし、気の合う友だちもできたけれど、「自分はマイノリティだ」という思いはずっと付きまとっていました。

──うまく溶け込めなかったんですか。

最初の1年間は鮎川誠にあやかって、自分は宮崎弁を通したんです。2年目に東京出身の友人から「悪いけど、何を話しているのか本当にわからない」って言われて衝撃を受けました。それで、がんばって標準語に直したんです。いまでは宮崎弁に戻れなくなりましたけど(笑)。

果てしないダメ出しに
対抗する最後の手段

──記憶に残っている授業はありますか?

2年目で脚本コースに進んだときの先生が、入試の面接官でもあった馬場当さん。手がけた脚本もすごいけれど、風貌を含め、人物にインパクトがある方。ある実習では脚本について相当やり合いました、というかやり合いにもなっていないんですけど。
人望のなさか、実習チームのみんなの応援もないまま、自分ひとりが鶴見にある馬場さんのご自宅まで1時間かけて通っては、夜な夜な「ダメだ」って言われ続ける。
「こう書け」って命じられるのが嫌で、「この人が言ったことは一言一句書かない」と決めました。最終的には馬場さんがあきらめた。

──書き上げて、監督されたわけですね。

その後の合評会。ボロカスに言われるだろうと覚悟していたら、「こいつにはいいところがある。根性がある」って初めて褒められた。ご本人的には褒めたわけでもないんでしょうけど。
そして3年目。教務課に無理を言ってドキュメンタリーコースに転科しました。

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※当時と違い、現在の日本映画大学では、
 コース名称と内容が変わったり、
 開講されていないコースがあります。