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脚本家

港 岳彦

minato takehiko
パソコンに向かっても
一言一句出てこなくなった

転科のきっかけは1年目のドキュメンタリー実習。初めましての人と会って作品をつくる作業は、傷ついたり傷つけられたり、ストレスフルな経験だったけれど、社会を知らない甘ちゃんの自分が脚本を書くならば、そういう学びが必要だと考えた。
つまり馬場さんに恨みを残したまま、コースを変えたわけです。

──たもとを分かつことになった。

ところが卒業してシナリオ講座に通おうと調べたら、講師のひとりが馬場さんだった。面接審査があるのですが、その席にも馬場さんがいると知り、「リベンジだ」とばかりに刺し違えるような気持ちで会場に向かいました。

──久しぶりに対峙されたんですね。

いざお会いすると……、「来てくれてうれしいよ」って、めちゃめちゃ好々爺な感じ。思わずこっちもホロッとなってしまって。……以来、弟子になりました(笑)。

──大転換じゃないですか(笑)。

我ながらチョロいですよね(笑)。振り返ると映画学校は、馬場さんとの出会いが大きかった。
それと、当時リアルタイムで放送していたドラマ『並木家の人々』の脚本を書いていた池端俊策さん、古典の名作を淡々と実践的に分析されていた石堂淑朗さん、このふたりの授業も勉強になりました。

自伝、恋愛小説……
本人のかわりに本を書く

──卒業後、シナリオ講座に通いつつ、食い扶持はどうしていたんですか?

僕は中学生の頃から組織に向いていないと思い詰めていたんです。それと、社会の底辺をうろついてその経験を書く、みたいな作家スタイルにも憧れていた。
親には「卒業後もドキュメンタリーチームの撮影を続けるから就職はしない」と通告して、日雇い労働を2、3年続けていました。

──肉体労働ですか。

3年目に、池袋の西武デパートに落ち着きました。バックヤードで待機して、上がってきた荷物をエレベーターから引き出すという仕事。楽ではなかったけれど、荷物が来るまでの待機時間には本を読むことができたし、シナリオを書くこともできたので、自分にとっては最適な職場でした。
2年ほど経って、講座に通いながら書いていたシナリオが大伴昌司賞を受賞しました。「脚本家になったので、僕の籍を抜いてください」と派遣会社に伝えたものの、仕事の電話は誰からもかかってこない(笑)。

──新たに仕事を探さないと食べていけませんよね?

そこで始めたのがゴーストライターです。本を書きたいけれど、筆力がない人たちが企画を持ち込む自費出版の会社でフリーのライターを始めました。「どうやって書けばいいかわからない」という人を相手に、構成とストーリーを組み立てる。
いまでも覚えているのは、青焼きの裏に「ふたりが出会う」「ここで盛り上がる」「悲しい別れになる」とだけ書いて「これを小説にしてくれ」と言ってきた建設会社の社長。「主人公は本人をモデルにしていいですか」「それだと嫌味だから、渋谷のパソコン会社の社長にしておこう」とか、そんなやりとりを延々と重ねていく。
何十人もの本を執筆しましたが、すごく好きな仕事でした。「キャラクターを固めないとストーリーは組み立てられない」など、そこにはいろんな学びがありました。

自分には脚本しかない
シナリオを応募しまくろう

──その間もシナリオは書き続けていたんですか。

はい。8年ほど経って、『ちゃんこ』という映画で脚本家デビューをしました。とは言え、自分が書いた部分はほとんどなく、便宜上、名前を出しただけ。
食うために引き続きゴーストライターをやっているうち……、ある日突然何も書けなくなったんです。一言一句出てこない。

──それはどうしてでしょう。

作品クレジットに「港岳彦」をうたえないからです。自己表現をしたいのにゴーストライターとして他人の表現を8年間続けてきたダメージが突然襲ってきた。

──どうやって克服したんですか?

「やっぱり脚本しかない」と腹を括ってコンクールに応募しまくったんです。5本くらい連続で応募したところ、どれも一次審査で落ちてしまって「人生終わりだな」と思い詰めていたとき、唯一賞をいただけたのが『イサク』。もう30半ばになっていました。

──大賞を受賞されたピンク映画用のシナリオコンクールですね。

何年も書き溜めていたメモがあって、それはキリスト教を題材にした話でした。いつか文学として作品にしようと考えていたんでしょうね。ストーリー自体は完全にフィクションですが、非常に私的な部分を反映した話でした。

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※当時と違い、現在の日本映画大学では、
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 開講されていないコースがあります。