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映画監督

中野 量太

nakano ryota
「映画に不可能はない。
 どんなことでも、やろうと思えばできる」

──卒業制作はクラスで2本撮るのでは?

ふつうはそうなんですけど、先生が「我がクラスはふたつの予算を足して、でかいのを1本撮ろう」と言い出して(笑)。結果、ついに決選投票で勝って、監督することができました。
それが『バンザイ人生まっ赤っ赤。』。たぶんいまだに学校史上最長尺の作品だと思います。

──どんな体験になりましたか。

それまでの人生で一番興奮しました。自分がつくったものをほかの人が観て喜んでもらえる、その感覚はたまらなかった。

フィルムと映写機をかついで
はるばる遠征した北海道

──印象に残っている授業はありますか?

クラスの先生は新城卓監督で、ちょっと変わった実習がありました。
先生が監督した映画があって、「自由に使っていいから北海道で興行してみろ」と。僕らは北海道の市町村すべてに電話をかけましたからね。3つの町の賛同を取りつけて、フィルムと映写機をかついで北海道を回りました。
CM実習では、ビール会社に「CMを撮るので現物を提供してください」ってお願いしたところ、本当にビールを何ケースも送ってきてくれたことがあった。おかげで教室はビールだらけ。毎日みんなで飲んでいました(笑)。

──ラッキーでしたね(笑)。

新城先生はよく今村組の話をしてくれました。その経験談のなかの「映画に不可能はない。どんなことがあっても、やろうと思えばできる。それが映画だ」という言葉が心に残っています。いまも困ったときに思い起こす言葉です。

失敗しては怒られて
自ら身を引いた映画の現場

──卒業後はどんな歩みを?

茨の道が待っていました。1年先輩の李相日監督は、PFFでグランプリを獲って、あっという間に監督になった。同じ道を歩めるのかと思っていたら、そんなことはなく、僕は助監督として現場に入ることになりました。
ところがまったく通用しない。助監督の一番下は気を遣うことがまず求められる。それが全然できないんです。20半ばにもなってクビになるんだと自分でも驚きました。

──まわりを盛り上げる腕は磨いたのに、それとはまた違うんですか?

全然違ったんです。芝居に興味があるからそっちばっかり観ていて、やらなきゃいけないことが疎かになってしまう。ロケで「あとでバミリを取っておけよ」って言われても、撮影が終わるともう忘れている。
めっちゃ怒られて、ひたすら謝る。で、次の日、また同じ失敗を繰り返す。3つくらい現場をやって「もうダメだ」と感じ、映画業界から離れました。

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※当時と違い、現在の日本映画大学では、
 コース名称と内容が変わったり、
 開講されていないコースがあります。