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映画監督

中野 量太

nakano ryota
このままでは
映画監督にはなれない

そこからフリーランスとして知り合いの映像制作会社に出入りするようになります。ADみたいな仕事から始めて、少人数だったこともあり、すぐにディレクターになって、CSの料理番組や、東京都の産業の紹介、一番長く携わったのは若者の討論会、そういう番組をつくっていました。

──どうアクションを起こしたんですか?

1年に1回くらい、「こんなおもしろい監督がいるよ」って電話してくる同期がいたんです。それがいろんな作品の照明部でキャリアを重ねていた谷本幸治
たわいのない会話しかしないんだけど、僕の背中を押し続けてくれていた気がします。思い立って、自主制作映画を撮ることにしたときも手伝ってくれました。それが『ロケットパンチを君に!』です。
以降、テレビの仕事で食い扶持を稼ぎながら、2年に1度くらい短編を撮っては、映画祭である程度の評価もいただいて──と繰り返しているうち、「このままでは映画監督にはなれない」と気づくんです。もう30後半に差しかかっていました。

誰も振り向いてくれない
どこも引っかからない

そこで最後の勝負に出たんです。自主映画とはいえ、ある程度予算をかけて「こいつはプロで撮れる」と思ってもらえるクオリティの作品を撮るしかない。
自分の蓄えでは全然足りないので、出入りしていた制作会社の社長や親、地元の友人にも協力を仰いで800万を集めました。これでダメだったら、僕の感覚がダメだということなんだ、という覚悟でしたね。

──それが『チチを撮りに』ですね。

完成して早速いくつもの配給会社に作品を持ち込むものの、誰も振り向いてくれない。だったら国際的に評価してもらおうと、海外の映画祭にエントリーを始めるんですが、これもぜんぜん引っかからない。
国内の映画祭では唯一、「賞を獲ったら劇場公開します」というふれ込みに惹かれてSKIPシティ国際Dシネマ映画祭に応募しました。すると縁あって、賞をいただけたんです。
そのときの国際審査員のひとりが作品を気に入ってくれて、海外へと紹介してくれた。そのおかげで、自主映画なのに海外セールスエージェントがつくことになったんです。

──怒濤の展開ですね。

そのセールスエージェントが「来年のベルリンにこれを出品する」と。僕が「ベルリンには今年出してダメだったんです」と正直に伝えると、「ノンノン、そんなの誰も観ていないから」と。
いまでは理解していますけど、とくに三大映画祭なんてセールスエージェントなどのツテがないと通るわけがない。
結局すんなりベルリンが決まり、日本での公開も重なったおかげで、たくさんの方に観てもらえたし、いくつもの日本の映画賞もいただけました。僕にとって最初の名刺ができたんです。

無名の監督がオリジナル作品で
勝負するなら武器はこれひとつ

──商業デビュー作『湯を沸かすほどの熱い愛』はどのように?

『チチを~』公開に先立って試写を回していたら、クロックワークスという制作会社の方が観てくれて「おもしろいね」と。
2回目の試写には同じ会社の別の人が、最終試写には社長が来てくれて、「オリジナル脚本で僕と一緒にやろう」。「ついに来た!」と思いました。

──その後はトントン拍子ですか?

すぐには脚本が書けませんでした。日本の現状では、多くの場合、興行成績を上げるには知名度のある良い俳優を集めないと望めない。
無名の僕が、しかも原作ものではない作品でどうすればそれができるのか。脚本のクオリティしかないと考え、必死で2年くらいかけて書き上げました。

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