みんな入試のときこそ、おとなしい格好だけど、合格発表に行ったらリーゼントの連中ばかり。「ここに通うのか」と考えたら嫌になりましたね。
4日目に登校せずにいたら、お袋から「3日坊主か」と言われたので、もう1日だけ行って、それで辞めてしまいました。
──学校へ行かず、何をしていたんですか?
バイクに乗っていました。その頃はダサい連中が暴走族になるというイメージがあって、僕らが夢中になったのは走り屋。「バリバリ伝説」が流行っていたんですよ。
峠を攻めに大垂水峠に通っていました。ところがそこで、また事故を起こした。
──よく起こしますね。
それで愛車はオシャカになってしまった。友達には格好をつけて「俺はもうバイクから降りる」なんて言いましたけど、何にもやることがなくなっちゃったから、歓楽街で遊ぶようになりました。素行がよくなくて、妹たちは家に帰ってこないよう祈っていたらしいです。
──横暴だったんですか。
そうです。姉がひとりいますけど、僕は8人兄弟の長男。長男なんて、もうトップ・オブ・トップなので(笑)。とにかくえばり腐っているわけです。それで嫌われる。嫌われている自分が嫌になって、さらに横暴になる。負のスパイラルです。
その頃、将来を考えたんです。このままではロクな仕事に就けないな……と。
──それほど荒れていたんですね。
いまの生活の延長上にあるような仕事だったら、いつでも就ける。ふと、「なれそうで、なれなさそうなものに一度挑戦してみよう」と。
といっても、その時点で清原和博にはなれない。役者とか歌手を目指すのもありがち。それで「映画監督っていいんじゃないかな」と。
──どこから映画監督が出てきたんですか?
ふと思いついただけです。
どうやったら映画の世界に
入れるのかがわからないから
──映画はお好きだったんですか?
そんなに好きでもなかったです。年に2本観ていたくらいじゃないですか。うちは兄弟が多いから定額の小遣いをもらったことがない。そのかわり盆と正月だけ、新しい服を買ってもらって、レストランに連れて行ってもらって、本を買ってもらって、映画を観る、というイベントがあったんです。
小5で横浜に引っ越しましたけど、それまでは栃木にいて、そもそも近くに映画館がなかったですし。
──それでも「映画監督に」と。
そう考えついた矢先、テレビをつけたら、たまたまスピルバーグのインタビューをやっていたんですよ。「ルーカスとスタジオをつくるんだ。日本の優秀なスタッフにもぜひ参加してほしい」と言っている。「うん、これだ」と思ってすぐに手紙を書きました。「俺はタダで働くから、雇わないのは損だ」って。
──英語で書いたんですね。
全部日本語です(笑)。いやいや、スピルバーグなんだから、日本語くらいわかるだろうと思って。
──(笑)。宛名書きはどうしたんですか?
子どもの頃に『クイズ100人に聞きました』で関口宏さんが「宛名の住所に『TBS』しか書いていないハガキが僕に届いた」と言っていた記憶があって。
アメリカでスピルバーグのことを知らない人なんかいないじゃないですか。だから「U.S.A. スピルバーグ様」って書きました。投函して3日で戻ってきましたよね(笑)。
──でしょうね(笑)。
だけどこっちは、もうその気になっているわけです。本屋で当時有名だった監督や演出家を調べて、森田芳光さんや浅利慶太さんにも手紙を書きましたよ。誰も返事をくれなかったけど(笑)。
とにかくどうやったら映画の世界に入れるのかがわからない。それで、映画の勉強をしたいというよりは、映画の仕事に就くために学校へ行こうと考えたんです。
日芸が有名だったけど、高校を卒業していないから大学は入れないので専門学校を探しました。東京写真藝術専門学校と日活芸術学院はどちらも2年制だったんじゃないかな。日本映画学校(現・日本映画大学)は3年制だったので、本格的に教えてくれそうだと思ったんですよ。ところが「うちは高校を出てないとダメよ」と。
──入学相談でそう告げられたと。
それで大検を取ることにしました。全部で11単位あるんですけど、僕は1単位も持っていないから全部取らなきゃいけなかった。1年目に10個取ったけど、漢文を落としちゃったので、結局2年かかりました。
いま思うと大検を取ったなら、なぜ日芸を受けなかったんだろう。思い込んだら突き進むタイプだったのかもしれないですね。
レールから外れたことを
ポジティブに捉えてくれる
──学生生活はいかがでしたか?
お袋なんか、更生施設だと思っていますよ(笑)。
──(笑)。当時は少々乱暴なところがあったようですが、まわりと打ち解けることができたんですか?
最初はみんな、ちょっと引いてましたね。僕もかましていて、ベンツで通っていましたし(笑)。