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脚本家

瀬古 浩司

seko hiroshi
全然面白くなくて
我ながらショックを受けた

それでも1年目は「わーっ」とやっているうちに実習は終わるんです。でも2年目になると、少し長い尺の作品をつくる。撮影期間も伸びるし、朝5時とかに起きて重たい荷物を持って電車を乗り継いで現場に行って、夜クタクタになって帰ってきて、また翌日、朝5時に起きて……という毎日が繰り返される。
もちろんそれを楽しめる人もいて、そういう人が実写の世界に進むんでしょうけど、僕は「これはマジで無理だな」と思いました。そもそもがかなりインドアな人間なんで。

──そこでアニメーションに舵を切ったわけですね。

いえ、在学中は全然考えていませんでした。

──それでも3年間通ったということは、「学ぼう」というモチベーションが続いたんですよね?

卒業しないとオーストラリアに行けないし、ほかにやりたいことがあるわけでもない。それに当時は学校は一度入ったら卒業まで通うのがふつうだと思ってたので。
あと、実習用の脚本を書くという作業があって、それは楽しかったんです。家で好きな音楽を聴きながら、チクチク書くことが。

18歳の若造がどこまで
理解できるんだろう?

──印象に残っている授業はありますか?

2年のとき、5分くらいの短編ビデオをクラスの全員が撮る、という実習がありました。脚本はよく書けたと思っていたんです。ただそれを映像にしたら、びっくりするくらい面白くなくてショックを受けたことを覚えています。
頭のなかで思い描いていたものを文字ベースでは一回吐き出せるけれど、正しく映像にすることができない。自分で編集をやるのもめちゃくちゃ面倒くさい。みんなが粘ってやっているなか、僕は「もういっかな」という感じでさっさと帰っちゃったりして。……話せば話すほどダメな学生ですね(笑)。というか端的に言って落ちこぼれでしたね。
あと、映画学校の雰囲気もあんまり合わなかったということもあります。僕はハリウッド映画に育てられた人間。たとえば「『バッド・ボーイズ』、超好きです!」とはとてもじゃないけど言えない雰囲気があって……。言ったところで鼻で笑われるか「やれやれ」みたいな顔されるだけなので。実際のところはそんなことはなかったのかもしれませんが、僕にはそう感じられましたね。

──「もっと高尚な映画を」というムードがあったから?

そうですね。みんなが難しい顔して語り合ったり学校が推薦する、そういう映画もひと通り観ましたけど、たとえば『エアフォース・ワン』『コン・エアー』 『ザ・ロック』とかばっかり観てきた18歳の若造が、老夫婦が東京に遊びに来て子どもたちに無下にされるという映画を観たところで、その面白さが理解できるわけがない。30歳手前になってようやくしみじみと「いいなあ」と思えたくらいなので。
ただ当時はやっぱり「その面白さが理解できない奴は話にならない」みたいな雰囲気があった。とにかく「ちゃんと高尚な映画を観てしっかり理解しろ」と強要されるような、まあ映画を学ぶ場なんでそれが当然といえば当然なんでしょうけど、自分の好きな映画をバカにされることにプラスして同調圧力をびしびし感じて、ちょっとキツいなあ……と。
だから夜な夜な近所のTSUTAYAに行っては昔観た『ペリカン文書』 『戦火の勇気』 『ユー・ガット・メール』とかを借りてきてニコニコしながら鑑賞するという、なんだか隠れキリシタンみたいなことをしていましたね。
それに僕は熱心に学校に通っていたわけでもなかった。当時の講師の方たちも「瀬古? そんな奴いたっけ?」みたいな感じじゃないですかね。唯一、当時ビデオ室の管理をしていた二階堂先生という方だけは僕のことを認めてくれてましたけど、ほかの講師から見たら絵に描いたような劣等生ですね(笑)。

場末のレンタルビデオ屋なのに
日本のアニメがこんなにあるのか

──オーストラリア留学はいかがでしたか?

実は進路相談のときに、ある講師の方に「オーストラリア? そんなの行ってどうするの? 意味ないよ」とバッサリ斬り捨てられました(笑)。それで一瞬迷いが生じたのですが、でもまあ当初から行くって決めていたのと、当時の事務の方で、向こうの大学との窓口だった大西さんという方がいて、その大西さんが親身になってすでに留学している先輩たちの状況とか情報を教えてくれたり、面倒な手続きとかも全部やってくださったこともあって、無事に飛び立ちました。
提携先の大学はオーストラリア人ですら名前を知らないような田舎町にありまして、昼間っから失業保険でもらったお金で場末のパブで飲んだくれてくだを巻いてるおじさん・おばさんがいっぱいいるような町(笑)。
その町の外れにしょぼくれたレンタルビデオ屋が一軒あって、ルームメイトとよくDVDを借りに行っていました。『七人の侍』や『用心棒』といった黒澤作品が何本かと、北野映画がちょろっとあるくらいで、日本映画はほとんどない。
ところがアニメのコーナーに足を踏み入れると、『ドラゴンボール』とか『ポケモン』を始め、ものすごい数の日本のアニメが並べられている。「こんなド田舎の場末のレンタルビデオ屋にまで日本のアニメが届いてるんだ」と驚きました。この光景はいまだに忘れられないですね。そういう意味では僕の魂の一部はまだこのダメな田舎町にいるような気がします。

──そのアニメをレンタルしていたわけですね。

いや、借りてたのは例によって『ヒート』とか『RONIN』とかですが……。ただ帰国後に就活しようとしたとき、その光景が脳裏をよぎって、もともと実写の世界には行く気はなかったので、「じゃあアニメに行くか」と短絡的に。

──もともとアニメはお好きだったんですか?

子どもの頃に『ドラえもん』『ドラゴンボール』『ちびまる子ちゃん』とかを観ていて、あとはジブリや『AKIRA』『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』あたりをチラホラ観たという程度で、ほとんど観ていなかったですね。どんな会社がアニメをつくっているのかも全然理解していなかったので、yahoo!で「アニメ会社」「一覧」って検索したんです。
「あ」行から順番に見ていったら、「か」行にGAINAXがあった。どうやら『ふしぎの海のナディア』をつくった会社らしい、それなら小学生のときに観たことがある。『新世紀エヴァンゲリオン』ていうのもなんか聞いたことあるぞ。「ここならよさそうだから受けてみるか」と。
で、面接に行ったらちょうど新しく制作部を立ち上げる時期だったらしく、「すぐ来てください」と。

──苦労のない就活だったんですね。

海外の大学だったから卒業時期が6月。僕としては新卒だけれど、会社的には中途枠で、ほかに応募する人がいなかったおかげでスッと入れました。もし次の新卒の人たちと同時期で秤にかけられたら落ちていたかもしれません(笑)。

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